現在過去〜ドリーマーと白昼夢・PAST〜
『終点、楠間〜楠間でございます・・』
そのアナウンスまで気付かなかったが、もう終点だった。乗客がまばらに降りていくなか、制服姿の二人は、何というか、非常に浮いていた。
「ねぇ、そろそろお腹空かない?」
時刻はそろそろ一時を回る。電車に乗ってからずっとコーヒーしか飲んでいない。更に彰彦に至っては朝食はカロリーメイト二本だった。自業自得だが。
「そうだな。でも、どうしようか?」
駅員は上手く騙したが、制服姿で下手に動いたら、間違いなく呼び止められるだろう。弁当があれば別だが、彰彦は学食派なので弁当はない。どうしようもないヤツである。更に定期で乗っている二人は改札を超えることさえできなかった。
「まさに八方塞がり、ってカンジ。電車がでるのは5分後、見たところ喰いもn・・。」
ぎゅるるぅ〜〜
「あ・・」
腹の虫の突然の反乱に、少女は弾けたように笑い出し、彰彦は顔を真っ赤にし、視線を明後日の方向へ向けた。其処に何があるんだ?
少女はひとしきり笑った後、何かを思いついたかのように鞄から何かを取り出す。
それは赤い、花柄の弁当箱。と大きなメロンパン。
きらりーん!彰彦はそれらの物体に過敏に反応した。漫画表現的なカガヤキも出た。まさかの期待と共に唾液腺が過剰反応する、ダラッダラだ。パブロフの犬か、お前は。
「あたし、お昼持ってるんだけど・・その、よかったら・・」
「え、マジで!?有り難うッス!!」
良いも悪いも無い、即答だった。口調まで下手になっている。
そして噛み付くように、少女の手からメロンパンを掠った。コイツ、犬決定。
「じゃあ、・・あそこで食べよ。」
手近なベンチを指し、二人は其処に座った。
「はい、いただきます。」
少女は弁当に、彰彦は少女に手を合わせた。
各々の包みを開く。メロンパンの甘い香りが鼻孔を擽った。
メロンパンを三分の一ほど出し、一気にかぶりつく。香りと寸分違わぬ甘みが、口の中に広がる。
美味い。コンビニのジャンクフードを此処まで美味しく感じたのは初めてだった。中東の飢餓民、或いは中世の奴隷のような瞳が、一瞬、麻薬中毒者のように恍惚にとろけていたのを、少年は気付いていただろうか?
(本当は、弁当の方を食べて欲しかったんだけどなぁ・・)
結華はそう思いながら、自作の弁当を咀嚼していた。
(でも、こうして二人で弁当を食べてるなんて、ちょっと良くない?)
そう思い、少女の頬は自然と緩んだ。心なしか、弁当が美味しく感じられる。いや、自意識過剰とかじゃなくて。
彼女は気付いていただろうか?このカップルを通行人が訝しげに見ていたことを。
(嗚呼、美味かった。)
先刻、彰彦は戴いたメロンパンは、透明なビニールの残骸となって彼の手に収められている。隣の少女はまだ美味しそうに弁当を食べている。
(嗚呼、半端に喰ったら余計腹が減った。にしても、コイツ、喰うの遅くねぇ・・?)
それは、お前が異様に早いだけだろう。
(んにしても、コイツ美味しそうに食べるなぁ・・ネジ緩んでんじゃないか?)
自分のことは棚に上げてよく言うモノだ。ま、言ってはないのだが。
(そういえば、ゆいちゃんも、オレと食うときはいつも喜んでたっけ?)
幼稚園時代まで、一緒に食事なんて極々稀なことだった。だから(かどうかは知らないが)その度に彼女は終始にこやかな笑みを浮かべていた。
(何で今日はこんな事ばっかり思い出すんだろう・・)
自閉探索する少年の遠い目は、何処も見ていない様でもあり、見惚れている様でもあった。
『まもなく〜三番線、綯祇線、快速〜阿字藤方面行きが発車いたします・・』
独特のアクセントの放送がホームに流れる。待ってましたとベンチから立ち上がる者、対面から急いで駆けてくる者、徐にフライデーを鞄にしまう者・・まばらな乗客に紛れて彰彦達は車内に滑り込んだ。
『ドアが閉まります、ご注意ください・・』
がらがらの車内にアナウンスが空々しく響いた。
彰彦達は再びボックス席を確保し、発車するのとほぼ同時に下らない漫談を再開した。
満足な量とは言わないまでも、腹に何か入っているのといないのとでは、テンションが違う。少女の相の手も絶妙で、話のネタはいつ果てなく続くように感じた。
窓越しの景色もジョークも時間さえも、快速で進んで往く・・がたん、がたん・・
永久に続くと思われた時間に翳りが見える。話している途中、彰彦は腹部に、不愉快な痛みを感じた。それは・・
(う・・トイレ行きてぇ・・)
汚い話で申し訳ない。面白そうに話している少女に彰彦は
「すまん、ちょっとオレ、トイレ行ってくるわ・・」
と、申し訳なさそうに断り、そそくさとその場をあとにした。
二車両先のトイレは、何かの間違いじゃないのかと疑いたくなるほどの大盛況だった。とは言っても二、三人並んでるだけだが、追いつめられた彰彦には過酷な環境だった。
所在なく何気なく時計を見てみる。時刻は三時を回った辺り。あと一時間もすれば、電車は椎林―彰彦の停車駅に着く。彰彦はその事を寂しく思った。何もしなくても、あと六十分でこの居心地の良い空間は消えてしまう。
(おれ、これからどうしたいんだろう?)
水洗音が流れ、また一人手洗いから出て、ふらりと何処かへ行ってしまった。
結華は所在なく、ボックス席に一人で座っていた。
(はぁ、なんか疲れたわ・・)
一人になったことで、気が抜けたためか、結華は疲労を知覚した。会話のテンションの高さに加え、彰彦への緊張のため、結華は表面には出さないまでもかなり疲れていた。
(やっぱり、あたし、まだアガッてんだわ。なんだかねぇ、まったく・・
にしても、彰彦君、遅いわねぇ・・それに、なんだか眠くなってきたし・・)
その思考を最後に、結華は、眠りに落ちた。
スッキリしたあと、彰彦は席に戻った。そこで少女は眠りこけていた。
(ったく、しょうがねぇなぁ・・)
苦笑しながら、ふと窓の外を見てみる。黄金色の秋穂の海原が、飛ぶ様な速さで駆けていく。快晴の蒼だけが、何処までも変わることなく広がっていた。
ふたたび目の前の少女に目を向ける。先刻と変わることなく眠っている少女は、心地よさそうな、あどけない笑みを浮かべ、「ううん」と時折吐く寝息は何故か悩ましかった。
(・・いかん、魅入ってしまった。)
しかし、彰彦はまだ名も聞かぬ少女に、一瞬ではあったが、
(・・可愛い?)
と思ってしまった。
(ん・・苦楽をともにした男女は、親密度が上がると言うが、そんな絵空事起こってたまっかよ・・)
と先刻の感情を否定しようと思った。しかし証拠に勝る論理はない様に、一度意識してしまったら、それを覆すのは、不可能なのだ。
(オレは、彼女のこと・・どう思ってるんだろうか?)
尽きない疑問と蒼天だけが、何処までも広がっていた。
現在形過去。記憶の列車は現在に向かい、最後の刻まで、停まって進む。
秋冬の分岐点。終点の前日。茜に染まる2LDK。
「・・あきひこちゃん。あのね、ゆい、あしたでばいばいなの。」
突然の宣告に、少年の世界は確かに停まった。
「ぱぱがね、おしごとでね、とおくにいっちゃうんだって。だからね、ゆいも、いっしょにいかなくちゃなの。だ、だからね・・」
「やだ!ゆいちゃんともっとあそんでいたい!」
少年の大きな瞳から、ぽろ、と滴が零れた。
「お、おれ、まいにち、ゆいちゃんとお、ままごと、したい。よう、ちえんもいき、たい・・。」
ぶつぎりの少年の願い。その、無垢な願いは、事実を傷つけることかなわず、そのかわりに、目の前の少女だけを傷つけた。
「ゆいも、だよ。で、もね?それは、きっともう、できないんだよ。だめなんだ、よ」
少女もぽろぽろと涙を流す。
涙が涙を呼び、幼い二人は、溢れ出す思いを、もう言葉にできなくなっていた。茜に染まった2LDKに嗚咽が染み込んでいった。
どれほど泣いただろうか?いつもどおり先に口を開いたのは少女だった。
「これ、さいごのぷれぜんと。あきひこちゃんに、あげる。」
そう言って少女は傍らの熊を抱きかかえ、少年に差し出した。少年は何も言わず、差し出されたちゃーりぃくんを抱きかかえた。
少女は、それを見たあと、目一杯の涙を溜めて、震える声で、言った。
「あした、ここにきて。さいごの、やくそくだよ?」
少年は何も言わず、こくん、と頷いて、その部屋を去った。此処にいたら、また泣きそうだったからだ。
ばいばいも言わなかった。言えなかったからだ。
ドアの外、帰り道。俯き帰る道すがら、涙で歪んだその世界。少年は、少女から遠ざかるたび、足を一歩進めるたびに、世界が崩れゆくのを感じていた。視界はおかしなくらいに屈折し、通い慣れたその道を、異形の夢幻に変えていた。
少年はこれは悪い夢だと思った。此処は夢幻だと思った。
大切なものを失う夢。少年は早く目覚めてしまいたかった。
(おうちへかえろう。きっとつけば、このゆめもおわる・・)
少年は無心に夢の終着、暖かな我が家へ歩いていった。
陽光差し込む六畳間。二つの針の重なる頃。
少年は布団の中にいた。何となく、外に出る気がしない。外には何か、恐ろしいことがある様な気がして。其処では何か、大切なものが欠ける様な気がして。
少年は茜差すまで、家からでなかった。昨日の夢がどうにも頭から離れなかったからだ。
突然、背後で扉が開く。母が買い物から帰ってきたのだ。
「珍しいわね?今日はゆいちゃんの所には遊びに行かなかったの?」
何の悪意もない母の言葉が、少年に突き刺さった。脳裏に昨日の事実が甦る。
夢だ、そう否定する少年の目に、部屋の隅にーまるで隠す様に置かれた、くまの縫いぐるみが写った。
“さいごの、やくそくだよ?”
別れ際の、少女の一言が鮮明に甦り、何度となく反芻した。
少年は、突然、弾かれたように立ち上がり、ちゃーりぃくんを抱え部屋を飛び出した。
外の世界は陽が傾き始め、茜色から深い闇に移りゆく頃だった。
(いそがなくちゃ、いそがなくちゃ!)
少年はひた走った。『やくそく』のために、きちんと「ばいばい」を言うために・・
終点。誰も居ない部屋。闇だけが満ちる2LDK。
息を切らして走った少年を待っていたのは、うっすらとしか残っていない、『楡崎』の表札と、熱を失った部屋、如何ともし難い後悔。
誰も居ない部屋は、少年を責め立てているようだった。
少年は、泣いた。ひたすらに、ひたすらに。言えなかったことを、全て、込めて。
ごめんなさい、ありがとう、たいせつにするよ、わすれない、だいすきだよ、またあそぼうね、わすれないでね・・・・・・・・
「いかないで。だまっていっちゃわないで。おねがいだから、おねがいだから・・!」
叫ぶような嗚咽が木霊し、闇に溶けこむ。ぼろぼろとこぼれる涙とこころが、外気に触れ、冷たく、痛かった。
側にいる縫いぐるみだけが、優しく、暖かな笑みを浮かべていた。それはいつも側で笑っていた、少女のように、いつまでも、いつまでも、微笑んでいた・・
・・・・と。
視界が急速に明るさを取り戻す。いつの間にか寝ていたらしい。頬には涙の痕があった。
(夢で泣くなんて、なんか、かっこわりィな・・)
目を擦りながら、彰彦はそう思う。
(そろそろ起きたかな・・?)
覚醒してきた意識でそう思い、窓から正面に目を向け、彰彦は愕然とした。
少女が、いなかった。
先刻の夢が急速に甦る。
(また、オレは何も言えなかったのか・・?オレはそんなにも無力なのか?何度も何度も、オレはいつになったら学習する?
・・好きになった、かもしれないのに・・・・・・・!!!!!)
自責の念が止まらなくなり、頭を抱える。いっそ使えない自分のアタマをかち割って腐った中身をぶちまけてしまいたかった。
と、そこで彰彦は彼女のいた場所に、見慣れぬ、即興の便箋が置いてあった。
彰彦はそれを手に取り開けてみる。そこには女の子の文字で(殴り書きだったが)こう綴られていた。
『Dear 上嶋 彰彦様
まずは何も言わないで行ってごめんなさいね。
私の降りる駅が先だったし、ぐっすりと寝てたから、起こすのも悪いなぁ・・て思ったの。
それから、今日は楽しかったよ。最初はかな〜り気まずかったケド、一緒に弁当食べたり、色んな風景見たりね?
それに・・ずっと前から、一緒に話してみたいと思ってたんだ。学校も違うし、共通の知り合いもいない。だから、こうして、二人っきりで話すの、すごく嬉しかった。
最後に、私はだいじょうぶだから。誰をきみが見ていたかは知らないけど、私なら、黙って、きみを置いていったりしない。約束できる。だから・・
好きです。またお話しさせて下さい。できるなら、毎日、貴方の隣にいさせてください。
柏木 結華』
本文の下には、メールアドレスと、携帯の番号が書いてあった。
何故だろう?なみだがひとすじながれた。
どうにもならない感情に、こころが震えた。
感情がこぼれた。頬を伝う一雫に、すべてを込めて・・
安堵、失意、後悔、辟易、寂寥、それと、あったかい、何か。
(やっぱり、違ったんだよな・・)
彰彦は手紙を元在った形にたたみ、丁寧に封筒に戻した。
(柏木・・さん。雰囲気が、どことなくゆいちゃんに似ていた、気がする。)
未だ残る、彼の日の幻影。結華と付き合うことは、それに対する背徳だろうか?
『阿鹿府〜阿鹿府でございます。御出口、右側です・・』
アナウンスにハッとする。もう此処で降りなくてはいけない。彰彦はバッグを背負い、ボックス席を後にする。ただそれだけなのに、彰彦は、それが何か、特別なことに思えた。
ドアが閉まる前、彰彦はもう一度だけ誰も居ない、対面掛けの席を振り返った。
(いや、これは二択なんかじゃないんだよな。あの日が消えるワケじゃない。オレがいつまで其処に止まっているか、それだけなんだ。)
ドアが閉まり、電車は走り往く。決められた何方へ、疾く、疾く。
「・・さて、いきますか?」
彰彦は去りゆく其れに手を振ると、さっと踵を返して改札に向かった。
改札を出て、彰彦はポケットからケータイを取り出した。
(歩き出そう。あの日にサヨナラする必要はない、一緒に歩いていければ、其れで良い。腹はもう括った。あとは最初の一歩を踏み出すだけだ。)
便箋を開け、あらためて見る十一ケタをケータイに打ち込む。
腹を括ったはずなのに、胸の鼓動が押さえられない。
七回半のコールで、少女の声が継がる。
「も、もしもしィ?」
思わず声が裏返る。情けなさに苦笑し、受話器越しに笑いが弾けた。
気を取り直して話しかける、真面目モード全開だ。
「あの、オレです。」
新手のオレオレ詐欺か?そんな突っ込みも野暮なもの、相手―結華はその声に熱反応し、
「あ・・上嶋君?」
やや嬉しそうな声で返事をした。その声は、上気しているようだ。
「うん、そう。・・今日は、楽しかった。ありがとう。」
「ん、あたしも楽しかった。」
受話器越しの沈黙。彰彦は情けなさに熱暴走しそうだった。
沈黙を破るのは、やはり彼女だった。THE腰巾着、彰彦。
「電話、くれるって事は・・その、読んでくれたんだよ、ね?聞かせてくれるかな、返事。」
「ん・・その、オレ・・」
その先の四文字が、詰まる。無線の先で、結華は、静かにその先を待つ。
「す、すき・・です。」
血が沸騰するって、こういう事なんだろう。彰彦は熱に浮かれた意識で、ふと思った。
「・・はい。あたしも、です。」
耳元に響く、彼女のYes。振動が伝播して、彰彦の全身に広がる。と同時に、これ以上はヤバイ、と彰彦は感じていた。
最高の快楽の中、彰彦は振り絞った声で、最後に伝えた。
「あ、電池切れそう。じゃあ、またあした。」
小さな「うん」を聞くと、彰彦は黙ってケータイを切った。
見上げた空は朱に染まり、アキアカネの群れが、何方へと飛んでいる。
決してレールは消えないけれど、思いと未来は何方知れず、誰かを乗せて停まって進む。
斯くして其れは電車のように、未だ見ぬ終点、彼方に向かい、停まって進む。
がたたん、がたたん、がたたん、と・・
〜悔やんで時が戻るなら悔やむのも悪くない。でも今は、悔やむ間も惜しいんだ〜
END