『浮流月夜〜真冬の夜か夢〜』
自分が風を切っているのか、冷たい夜風に身を切られているのか、その境ももはや同致な一月七日の夜のこと。
町の灯はぽつり、ぽつりと消え始め、車道は既に信号は要らない。行き交う人など無論居ない。
そんな夜道を、壊れかけのライトをちか、ちか、と心細げに点灯させた、鈍い銀色の自転車が通っていた。
「・・何でオレは、こんな事しているんだ?」
乗っているのは眼鏡を掛けた青年。濃紺のコートに顎までかかるタートル・ネック、細身に合うすらっとした黒いパンツ、少し茶色な癖ッ毛と、ひょろん、と長い身体が特徴的。強いて言えば、ルックス的には中の上、と言ったところだ。
彼の名は、和木宮 芳成。今年受験の有嘉学院高等部三年である。そして・・
「ったく、誕生日だってェのに、塾で勉強だもんなぁ・・」
そう、彼はナニゲに本日でめでたく18歳を迎える。本来ならば、友達誘ってカラオケ、ゲーセン、飲み屋に行って朝までバカ騒ぎしたい所だったのだが、哀しいかな、センター試験まであと十日と無い受験生にそんな余裕はあるはずもなく、芳成達は忙しい塾の合間を縫って、バーガーとシェイク(今だけ百円)で乾杯をし、食事の合間にさえ問題を出し合っては、やべェ、やべェとバカ騒ぎをしていた。
目の前の赤信号で、ききっ、とブレーキを踏む。目の前を自動車が二台ほど、闇から闇へ走り去った。
「なんて虚しい、誕生日だったんだろう・・」
芳成は白い溜息を吐いて、ふと空を見上げた。
頭上には透きとおった冬の空に透かされて、空には月が煌々と光り、カシオペアやオリオン達が漆黒のカンバスに踊っていた。
(夜空がこんなに綺麗だったなんて、知らなかったな・・)
芳成は、ほぅ、と息を呑み、頭上の御伽に魅入った。
(なんつーか、飲みたくなってきたな・・)
親が飲める所為もあってか、芳成は酒飲みである。・・未成年にもかかわらず。仲間内で飲む時も、最後まで飲み続けているクチである。
(一年生きた祝杯でも一人で挙げるとするか!・・淋しいケド。)
決めるが早いか、芳成はハンドルを切り返し、最寄りのコンビニへ自転車を走らせた。
そして数十分後、芳成は『袋井憩い公園』にいた。
『袋井憩い公園』は芳成の住む椎林の隣町にある、狭い公園である。しかし、自室で汐らしく飲むのも気が引けるし、別段遠くに行くのもイヤなので、近からず遠からずの此処の築山に、ぽつん、と座っていた。
今となってはもう小さくなってしまった、二メートル程度の築山。しかし大きな建物もなくため、遮るモノのないその眺めは、美しかった。
「花鳥風月を酒菜に一杯とは、なかなかに雅じゃん。」
そう呟いて、チューハイのプルタブを、かこん、と開け、一気に流し込んだ。
ライムの爽やかな酸味と、アルコールの喉越し、そして炭酸が口から喉へ滑り落ちる。
酒は旨かった。
月は変わらず空で輝き、一人の祝杯を見守り続けている。冷たい外気を吸う度に、胃のアルコールの熱を実感する。こんな酒は初めてだった。
酔い潰れない程度でも、酒は三本ほど買ってある。抜かりはなかった。
「くううぅぅッ!旨い!」
芳成は思わず大声を上げた。しかし夜ももう遅く、まだ冬季休業中の多くの家庭は、その声に気付かず、穏やかな眠りを維持し続ける。
真冬の夜の静けさを味わい、芳成はまた一声咆えた。
一人で騒いでは、ふと月に向けて缶を傾ける。
そうしてゆっくりと一缶目を飲み干すと、何故だか、ほろ酔い気分になった。
「んじゃあ、二缶目開けるとすっか・・」
手探りでコンビニの白いビニールをがさごそと探し、ビールを取り出した。
芳成は満足そうに手を月に掲げ、乾杯の真似をする。缶は静かに空を切るだけだが、其処に月が居ると思うと、笑みがこぼれてしまう。
「かんぱーい。」
一人つぶやき、プルタブに指を掛けようとすると、
「その、お酒は、良くないと思う・・」
と、後ろから突然声を掛けられた。芳成は驚き、缶を落としそうになる。
振り向くと、見知った少女が其処に立っていた。
彼女の名前は、吾佐倉 千奈津。芳成とは二年、三年と同じクラスだったりする。
肩までのウェーブのかかった黒髪と、とろんとしたタレ目の、温和しそうな女の子であある。寝る前だったのだろうか、薄い桃色のパジャマに、黒いガウンと、更にその上にキャラメル色の厚手のカジュアルコートを着ていた。
「あ・・吾佐倉さん、どうしたの、こんなところで。」
芳成はマズい所を見られた、と思いながら尋ねた。千奈津は困った、と言う表情で答える。
「えと、なんでって、真夜中に公園の方で和木宮君の声がしたから、どうしたのかなって・・。ほら、私の家、近いし。」
そう言って千奈津は公園の入り口近くにある、二階建ての他の家よりも一回り大きな家を指さした。どうやら千奈津の部屋らしい、其処だけはカーテン越しに蛍光灯の白い光が漏れていた。
「・・あそこじゃあ、此処の見晴らしも良いよねぇ・・」
芳成は「抜かったかな。」と呟き、ぽりぽりと頬を掻いた。
(さて、どうしたものか・・あのおっとり系な吾佐倉さんだから、流石に学校に連絡、とは行かないだろうけど、過信して何も手を打たないのは不安だ・・
・・いっそ押し倒しちゃおうか、顔も悪くないし?そして脅迫・・
いやいや待て待て!罪重くしてどうする!なに、一瞬マジで考えてんだよバカ!もうアルコール回ってきたのか!?)
苦笑いを浮かべたまま、一人模索する芳成。千奈津は何も言わずにそれを、じっと見つめていた。
(・・取り敢えず、)
「吾佐倉さんも、一杯どう?」
突然の呼びかけに、千奈津は驚いて、さっと視線を逸らした。
「こんな綺麗な月夜なのに、飲まないのは罪悪だよ。」
苦笑いのまま、芳成は「ほら」と緑色をしたラベルの白葡萄のチューハイを千奈津に差し出す。千奈津はその手をじっと見つめ、真剣な顔で思考し、
「・・そうかな、そうだよね。じゃあ、お言葉に甘えて・・」
と言って、芳成の手から缶をもらう。芳成はその仕草を、少し驚いたように見つめる。
「ハハ、そうこなくちゃ。」
(まさか、吾佐倉さんが酒を飲むとは・・ちょっと意外かな。)
両手で缶を持ちながら、千奈津がちょこちょこと隣に腰掛けた。
「じゃあ、乾杯。」
「えへへ、かんぱぁい。」
そう言って二人は手を伸ばし、ぽこん、と二つの缶をぶつけた。液体の揺れるゆらゆらとした感覚が手に広がる。プルタブを開け、同じタイミングで一口目を飲んだ。
ごく、ごく、ごく。
「・・はぁ。私、一人で一缶お酒飲むのって、はじめて。」
一口目を飲み、感慨深そうに千奈津が呟いた。脇で見ていた芳成は、
「いやぁ、いい呑みッぷりだよ。」
と茶化した。「もぉ・・」と千奈津は怒ったように笑った。
輝く月だけが、二人を見ていた。
酒を片手に、いろいろなことを話した。
芳成は今まで、千奈津とはあまり話をしないできた。互いに特別に接点もなかったし、そもそも芳成は千奈津のことを「同じクラスの可愛いコ」程度にしか認識していなかった。
だから、二人の身の上話はお互いの新発見だらけで、それだけで充分に楽しかった。
芳成の中身が無くなる頃、千奈津は既に真っ赤だった。どうやら彼女は酒には弱かったらしく、何かにつけて幸せそうにケタケタ笑っていた。
芳成は、思いついたように、
「吾佐倉さんってさ、大学は何処志望なの?」
とか聞いてみた。
「ん〜、あたしはねぇ〜、東京のげぇじゅつだいに推薦なのぉ。和木宮君はァ?」
「オレは願津の国際科に行くんだ。模試ではなかなかいい点取ってるンよ、オレ。」
「へぇ〜、そうなのぉ・・」
「吾佐倉さんも、推薦ってスゴいよ。なんか勝ち組じゃん。」
「そんなことぉ、ないよぅ・・」
そう言って、千奈津は少し淋しそうな顔をして俯いた。「?どしたの。」芳成は何かまずいことを言ったのか、と思い、千奈津の様子を見た。
千奈津は、おそるおそる、口を開く。
「和木宮君って、好きな人とか、居ないの?」
千奈津の咄嗟の一言に芳成は面食らった。頭が一瞬真っ白になり、今後の展開のシミュレートができなくなる。
ワンテンポ遅れ、慌てて目を反らし「いないよ。」と言おうとした。しかしそれは最後までは言えなかった。
「いな・・」
目の前に何かが飛び込んできて、柔らかなモノで、突然口をふさがれた。何かが芳成の口内で蠢いていると感じた時、それが千奈津の口吻だと気がついた。
普段の彼女の行動とは思えないそれに、格好悪くも、芳成は目を白黒させた。
舌先が器用に絡みつき、仄かに甘みのある唾液が、口腔内に広がる。
彼女の舌が口の中を一回りすると、千奈津はそっと口を離した。
「・・あ、吾佐倉さん?」
未だに信じられないという表情で、芳成は千奈津を見つめた。
「お、お酒の所為なんかじゃ、ないんだから!わたし、ずっと和木宮君のこと、好きだった!ずっとずっとみてた!授業中も、お昼休みも、放課後だって、いつも、いつも!
ずっとずっと、こうやって話してみたかった、一緒に、笑ってみたかった!去年のコース分けの時も、同じコースを選択した時は、本当に、嬉しかった・・」
自分が誰かにこんなに想われていたなんて、と芳成は嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な感覚を覚えた。
「何日も、何日も、和木宮君のことを夢に見て、その度に跳ね起きたんだよ。でも、私、臆病で、そんなチャンスは、一度も、来なかった。
だから、今日は、最初で最後のチャンス、と思って、勇気を出した。だって、このままじゃあ、もう和木宮君に告白するチャンスなんて、来ないかも知れなかったんだもの。
あの、わ、わたしは、和木宮君のことが好き、です。とても、とても・・」
彼女はそう言って、飲んだ時よりも更に真っ赤な顔を下に向け、静かに芳成の言葉を待った。
(さて、マジでやばいな・・人から此処まで想われたこと、オレにはないぞ・・)
芳成からすれば、千奈津の好意は嬉しい。更に言えば、今現在の芳成は、交際のある女性はおろか、意中の人もいないと言う、立派なFAである。
無論、大多数の独り身男の多聞に漏れず「あ〜ッ!切に彼女ほしい!」と叫んでいるクチだ。
(断る理由もない、か。而してそれは、OKに対する必要十分条件なのだろうか・・?)
アルコールで鈍った頭で、何度も思考を繰り返す。が、いつまで経っても堂々巡りで、結論は出てこない。
芳成の長い沈黙に耐えられなくなり、千奈津はとうとう涙を堪えられなくなった。かくかくと肩が震え、無音の公園に彼女の嗚咽が響く。
(ああ・・)
芳成は急に千奈津を強く抱き締めた。少し冷たくなった彼女の身体ごしに、とくんとくんと心音のぬくもりを感じた。
「へ・・。」
腕の中で千奈津は呆けた声を上げた。
何でこんなコトをしたのか。それは芳成にも分からない。ただ、彼女の嗚咽を聞いた時、考えるよりも先に、身体が動いたのだ。
「・・どうし、て、和木宮君、は、こうし、てくれる、の?」
腕の中で、千奈津が呟く。言葉を紡ぐたびに、ひっく、ひっくと堰が漏れ、上手くしゃべれないようだった。
「・・いや、ただ、こうしたいな、って思っただけ。吾佐倉さんには、泣いてほしくなかったんだと思う。笑っていてほしいな、って思う。」
どうとでも採れるような、曖昧な言葉。しかし、それは芳成の心の言葉であり、何よりも正直な言葉だった。
衝動的にやったのだ、と思う。必死に思いを伝えて、つらさに耐えきれなくなった彼女を、「思わず、愛しくなって」抱き締めたのだ。
そして、彼女の耳元に顔を寄せ、駄目押し、とばかりにこう補足する。
「・・きっと、吾佐倉さんのこと、好きなんだな、って思う。」
その言葉を聞いて、とうとう千奈津が決壊した。
「あ、あ、ああ、あぁぁぁぁっっッ!!」
芳成の腕の中、あたたかな涙と、声がこぼれた。芳成はそれを静かに受け止めた。
それ程時は経っていないと思う。泣き止んだ千奈津は芳成の胸にそっと顔を寄せる。
見上げた彼の顔は、月と外灯に照らされ、穏やかに微笑んでいた。それは、何度も夢の中で見た光景にそっくりで、彼女は自分は夢の中にいるのではないか、という不安に駆られた。
千奈津はそれを確かめるように、ゆっくりと芳成に手を伸ばす。
かじかんだ指先はしっかりと芳成の輪郭をなぞる。
(夢じゃ、無いんだよね。)
あらためてそれを確かめると、千奈津は芳成の首に手を回し、ゆっくりと顔を近づけていく。少しずつ、少しずつ、互いの顔が近づき、どちらとも言わずにキスをした。
月明かりに照らされて、二人の影法師が妖しく伸びた。
しばらくして、二人は「もうおそいから。」と言ってわかれた。
芳成は千奈津の残したチューハイ缶を片手に、築山の上に佇んでいた。
(しかし、今日はいろいろあったな。)
まだ仄かに熱を帯びているような気がして、唇の周りを舌でなぞってみる。先刻の接吻の余韻が、ぼんやりと広がっていった。
(酔いの所為も手伝って、なんか夢みたいな感じがする。んなワケないけど・・)
くすり、と芳成は笑うと、チューハイ缶をゆら、と揺らして一気にあおった。
すっかり炭酸の抜けたチューハイは甘くとろり、として千奈津のような感じがした。芳成は「あ、これ、間接キスだ。」などと下らないことに気付き、苦笑した。
芳成はふと、月を見上げ、ふふっ、と笑うと、ゆっくりと築山から降りた。
空には僅かに傾く月の灯が穏やかに輝いている。