現代百鬼袋 ―obakeno-hukuro―
第二夜 陰摩羅鬼(おんもらき)
蔵経の中に、初て新たなる屍の気変じて陰摩羅鬼となる、と云へり。
そのかたち鶴の如くして、色くろく目の光ともしびのごとく、羽をふるひて鳴声たかし、と清尊録にあり。
鳥山石燕 「今昔画図続百鬼 晦」
昔、おじいちゃんに動物園に連れていってもらったときのこと。
私とおじいちゃんはたくさんのペンギンが飼われている場所の前に立っていた。
まだ幼かった私は、おじいちゃんに尋ねた。
「おじーちゃん、どうしてここにはペンギンがたくさんいるの?」
するとおじいちゃんは笑って答えた。
「そうだね…………洸(こう)ちゃん、昔戦争があったときにね、この辺でも空襲があってさ、本当にたくさんの人が亡くなったんだ。でも死んでしまった人たちは本当にこの町が好きだったんだろうね。みんなの魂は、焼け跡に残った動物園に集まってきたんだ。それで、戦争の後から町が元通りになったころ、いつのまにか、このペンギンのいるところにはたくさんのペンギンがいた。きっと、死んでしまった人たちはペンギンになって、ここで町を見守っているんだね」
おじいちゃんは懐かしむような目で、ペンギンたちを見回した。
「おじいちゃんが子どものころよく一緒に遊んでくれた近所のお姉さんも、ここにいるのかなぁ………?」
おじいちゃんの目線の先では、一羽のペンギンが、ビー玉のような目でこちらをじっと見つめていた。
おじいちゃんがどこまで本気でそんなことを言ったのか私には分からないが、そのときの話は、嫌に私の耳の奥底に、延いては頭の中に、長らく残っていた。
長じて私はこの春、動物園の飼育員の職に就いた。
奇しくも、私の担当はペンギンだった。
私の指導を担当してくれることになった年配の飼育員さんは、餌のあげ方や、飼育室内の掃除の仕方まで、懇切丁寧に教えてくれた。
私は、きっとここでの仕事は私の天職だろう、と確信をもって仕事に臨む心持だった。
仕事を始めて一ヶ月がたったころ、長く病気で入院していたおじいちゃんが亡くなった。
おじいちゃんは、動物園でペンギンの世話をすることになったと話したとき、自分のことのように喜んでくれていた。
そのおじいちゃんが死んでしまった。
おじいちゃん子だったこともあり、私はしばらく立ち直れなかった。
しかし、二週間ほどたって、ようやく気持ちの整理が付いてきた私は、このままふさぎこんでいてはいけないと思い、久しぶりに職場に顔を出した。
職場の仲間は私の事情を慮ってくれ、とくに私の指導を担当してくれている玄さんこと玄沼(くろぬま)さんは、大層心配そうに、無理しなくてもいいよ、と言ってくれた。
しかし、私は玄さんの心配を丁寧に退けた。
「大丈夫ですよ。それに、せっかくおじいちゃんが喜んでくれた仕事だし、私が頑張らなきゃおじいちゃんにも失礼ですから」
「そうかい、それなら………」と玄さんは私が休んでいた間に起こったことを伝えてくれ、簡単な仕事を任せてくれた。
その日の夜、久々の重労働が祟ってタクシーの中でうとうとしていた私は、携帯のバイブレータで目を覚まされた。
着信を見てみると、玄さんからだった。
「―――もしもし、玄さんですか?………え?ペンギンが?」
話を聴くと、私が帰った後すぐ、夜だというのにペンギンたちが不自然に騒ぎ出したのだという。
何か様子がおかしいので、私に応援を要請したということだ。
『洸ちゃんも大変なのに、ごめんねぇ………』
申し訳なさそうに言う玄さんに、私は答えた。
「いえ、大丈夫です。じゃあ、すぐ戻りますね」
電話を切った私は、タクシーの運転手に頼んで今来た道を引き返してもらった。
私が動物園にたどりつくと、玄さんは「園長に相談してくる」と言って、飼育室を出て行った。
一人残され、飼育室を見回せば、確かに何か様子がおかしい。
どういうわけだか空気が淀んでいる。
それも動物特有の臭気とかではなく、もっと根本的な、胸焼けがするような空気だ。
何だろう、私は最近この空気を身近に感じた気がする。
どこだろう………………。
私が思考を巡らせていると、
「―――――――」
背後から声を掛けられたような気がした。
ひどくしわがれた、甲高い声が、私の耳に届いたのだ。
しかもその声は、私の気のせいでなければ、私の名を呼んだような気がしたのだ。
一瞬、玄さんかと思った。
だが、振り返った、そこにいたのは。
一羽の、ペンギンだった。
「………どうしたの?何かあった?」
さっきの声は、このペンギンが発したものだったのだろうか?
すると、ペンギンは不意に、
「――――洸チャン」
酷いしわがれ声で、私の名を呼んだ。
「――――っひ」
私は一瞬悲鳴を上げそうになって、なんとかそれをこらえた。
ペンギンはなおも語る。
「洸チャン、ワタ、ワタシダヨ………」
声が甲高い上にしわがれているので聞き取りづらかったが、私にはそれだけで十分だった。
「――お、おじいちゃん!?」
目の前のペンギンから発せられる声は、どこかおじいちゃんの声に似ている。
私は、子供のころおじいちゃんに聴いた話を思い出していた。
―――死んだ人の魂は、ペンギンになる―――
あれは、本当のことだったのだ。
私は、変わり果てた姿のおじいちゃんを見下ろした。
「洸チャン……洸チャン……」
掠れた声で何度も私の名を呼ぶペンギンを、私はそっと抱きしめた。
いつの間にか、あたりの淀んでいた空気はすっかり晴れていた。
また明日くるからね、そう言って私は動物園を後にした。
他のペンギンたちもすっかり落ち着いて大丈夫そうだったので、玄さんも一緒に上がった。
家まで送るよと言う玄さんに、大丈夫ですと謝って私は一人歩き出した。
なんとなく、一人で歩きたい気分だった。
すっかり人通りも無くなった深夜の道を、私は一人ぶらぶらと歩いている。
あのペンギンがおじいちゃんだったのだとしたら、それは、他のペンギンも皆この町で死んでいった人たちなのだろうか。
私たちが普段、「可愛いね」などと笑いながら見ていた動物は、そんな残酷な存在だったのだろうか。
彼らはいったいどれくらいあそこにいるのだろう。
既に死んでしまった彼らに、寿命などはあるのだろうか。
私は、深く深く意識の底に沈んでいた。
そして、気づかなかった。
角を曲がった瞬間、私の体は前から走ってきたバンに撥ね飛ばされた。
「―――ャン………洸チャン…………」
誰かが私を呼ぶ声で、私は目を覚ました。
意識が定まらない。
ここは、どこだろう。
私は、そうだ、帰り道に車に撥ねられて…………。
ぼやけた視界に、白い天井が映る。
あぁ……ここは病院か…………。
そんなことを考えているうちに、徐々に五感が戻ってきた。
そして、私は気が付く。
この、異様にどんよりとした、生臭い臭気を孕んだ空気に。
ギョッとして周りを見渡すと、そこは間違っても病院などではなかった。
「マ、マサカ………」
思わず漏れた声に、私は驚愕する。
喉に手を伸ばそうとして、気が付いた。
私の体には、既に手などないということに。
あるのはただ不恰好な翼。
声はしわがれ甲高く。
私はすっかり、陰摩羅鬼(ペンギン)になっていた。
日曜日、多くの親子連れでにぎわう動物園。
そのなかでは比較的閑散としたペンギンの施設の前に、一組の親子が並んでペンギンを見ていた。
子どもは無邪気にペンギンを眺めているが、母親のほうは、先日交通事故で亡くなった近所の女の子に思いを馳せていた。
その子はこのペンギンの飼育員として働いていたのだ。
祖父に続いて娘を亡くした家族の心中は推し量ることはできない。
母親の目頭に涙が浮かんだとき、幼稚園に上がったばかりの自らの子どもが、声を上げた。
「お母さん、あのペンギンさん、コウ姉ちゃんに似てるよ」
母親は慌てた。
「何言ってるのよ、この子は………。もう、行くよ」
なぜ怒られたのか分からない子どもは、きょとんとした表情のまま、母親に手を引かれてペンギンの前を離れた。
その後姿を、一羽のペンギンがビー玉のような瞳で、じっと見つめていた。