現代百鬼袋 ―obakeno-hukuro―


第三夜   狂骨

 狂骨は井中の白骨なり。
 世の諺に甚だしき事をきやうこつといふも、このうらみのはなはだしきよりいふならん。
                       鳥山石燕  「今昔百鬼拾遺 雨」


私は、娘を、殺した。
暴れる体を押さえつけ。
 頭を水に突っ込んで。
 がむしゃらに振り回される腕が私の腕をかすめ、皮膚を切り裂くのもかまわずに。
 気が付くとさっきまで壊れたようにのた打ち回っていた四肢はぐったりと地面に投げ出され。
 私は気が付く。
 あぁ、もう煩わしいあいつはこの世にはいないのだ、と。



 娘の死体はそのまま川に放置してきた。
 娘の存在という煩わしさから開放された喜びなど、ほんの数瞬の間でしかなく、あとはこの娘をどうしようか、面倒くさいな、などの疲労感がどっと押し寄せてきただけだ。
 結局、川岸に捨て置いたままにしてしまった。
 もはや、逮捕されようが死刑になろうが、どうでもよかったのだ。
 私の中には、面倒な疲労と、遂にやってやったという僅かながらの達成感がない交ぜになって、不快な吐き気となって渦巻いていた。



 しかし、三日たっても四日たっても、私の家のドアを刑事がノックすることはなかったし、テレビを見ていても私が娘を殺したニュースなど一秒も流しはしなかった。
 なぜか夫でさえも、娘がいないことを不思議にも思っていないようだった。
 私は薄ら寒い気持ちになって、夫に確認することもできなかった。
 怖かった。
 「娘?僕たちに娘なんかいないだろう?」と不思議な顔をされたらどうしよう。
 そう思うと、怖くて訊けやしなかった。



 あれから二ヶ月がたった。
 結局、娘の死体も誰かに見つかってはいないし、私の犯した罪が誰かに知れることもなかった。
 しかし、最近私は妙に気になっていることがある。
 「………………?」
 昨夜降った大雨で、町には幾つもの水溜りができている。
 その横を通ったとき。
 私の目に、何か白いものが映った。
 つられるように振り返ってみるが、そこにはただ水溜りがあるだけで、僅かに表面に波紋を浮かべているのみだった。



 それだけでは終らなかった。
 次に気になったのは風呂場だった。
 シャワーを浴びているとき、私はシャンプーが切れていることに気づき、いったん風呂場から洗面所に出たのだ。
 そのとき、
             ―――――――ガシャン!!
 背後からタイルに硬質のものが落ちる音がして、私はビクリと背後を振り返った。
 洗剤のボトルか何かが落ちたのかとも思ったが、タイルの床にはなにも落ちてはいない。
 ただシャワーのノズルからほとばしるお湯がシャアァアァアァ……とタイルを打つ音だけが風呂場に響いていた。



 私が本格的に恐怖心に駆られるようになったのはそれからだ。
 次は、洗面台だった。
 私が朝、眠い眼をこすって顔を洗おうと蛇口を捻ったとき。
 「…………………………………っ!!」
「ガチャガチャガチャ………っ!」と音を立てて。
 蛇口から無数の白骨が溢れ出してきた。
 「…………ひっ!」
 驚いてとっさに蛇口を締めると、洗面台に飛び散っているのは何のことはない、普通の水道水だった。
 しかし、一度気づいてしまうと、もう駄目だった。
 シャンプーを流すシャワーのお湯が、目を閉じた顔にあたると、それは目を閉じていても分かる、硬い白骨となった。
 湯船のふたをとるとき、湯船に張ったお湯の中に、真っ白な頭蓋骨が浮かんでいた。
 洗濯機を回すと、中から硬いものが回る「ガラガラガラ」という音がした。



 私は一週間ほどですっかり消耗してしまった。
 もう水仕事をする気も起こらない。
 あれほど好きだった風呂にももう入りたくない。
 何故だ。
 分かっている。
 あの娘だ。
 あの娘が、死んでもなお、私を苦しめる。
 私は手元のロックグラスに入った酒を見つめる。
 煩わしい、煩わしい…………。
 不意に、酒の表面に白い影が映った。
 「いいかげんにして!」
 私はその酒を一気にあおった。
 もちろんそれはただの酒で、中に白骨など入ってはいなかった。
 「ふ…ふふ……ふふふふ…………、なんだ、何もないじゃない」
 私はグラスをテーブルに置くと、立ち上がった。
 「そうだ………………お風呂に入ろう…………」
 私は、白骨の恐怖により、二日前から入っていない風呂に入りたいと思った。
 酒の中にも入っていなかった。
 だから、風呂の中にもいるはずはない。
 「ふふふふ……ふふ………」
 と、
 「……………っ!」
 不意に指すような痛みが下腹部を襲った。
 「……痛………痛い………」
 立っていられない。
 私ははいずるようにトイレへと向かう。
 「はぁ………はぁ…………」
 息が荒い。
 私は必死にドアに近づくと、そのドアに手をかけようとして、

  真っ白な手がトイレのドアノブを掴んだ。

「!?」
 それは手と呼ぶにはあまりにも粗末すぎる。
 白く、鈍い光沢をもった人間の、手の骨だった。
 そしてその白骨は。
 「っあっあぁああぁぁぁあぁぁぁあぁぁああぁぁあぁあっぁぁぁあぁああぁぁああぁぁぁああぁぁぁあぁぁぁっぁあぁあっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁああぁぁぁああぁあぁあぁ!?」
 
 私の下腹部を突き破って、生えていた。

 次の瞬間、喉が絞まるような感覚がして、私は自分の首を押さえた。
 押さえた皮膚の下で、ありえない感触が肉を伝わって手のひらにつたわった。
 「…………………っ!!?」
 内側から首を絞められるような感覚。
 考えるまでもない。
 私の口を押し開き、中から何かが外に出る。
 私の視界の端に映るのは、ドアノブを掴んだ手とおなじ色の頭蓋骨だった。
 僅かにザンバラの髪の毛が付いた頭蓋骨はぐるりと首をめぐらせ、私の方を見て――――――――――――