現代百鬼袋 ―obakeno-hukuro―


   第五夜   経凛々

  尊ふとき経文のかかる有様は、呪詛諸毒薬のかへつてその人に帰せし守敏僧都の読み捨てられし経文にやと、夢ごころにおもひぬ。
                          鳥山石燕 「百器徒然袋 中」



 私の目の前には、一巻の巻物が置かれている。
 周りには、煌びやかな装飾とともに、へたくそなのか、それとも日本語ではないのか、読めない字が躍っている。
 巻物を留める黒い紐は、先がほつれて、まるで黒髪のようだった。



 私がその巻物を見つけたのは、三日前。
 友達に連れられていった、アンティークショップだった。
 ―――その日の放課後。
 「ねぇねぇ、凛(りん)。このまえすごくおもしろいお店見つけたんだ。今日の放課後、一緒に見に行こう」
 声をかけてきたのは、私と仲のいい守屋(もりや)・香奈(かな)だった。
 私はその日は特に予定が無かったので、二つ返事で了承したのだ。
 
 一歩店に入ると、そこには異様な空間が広がっていた。
 一言で表すなら、『無国籍地帯』とでもいうのが妥当だろう。
 世界各地のさまざまなものが、所狭しと並べられている。
 マトリョーシカの隣にビクスドールが置いてあるかと思えば、さらに隣にはどこの未開の地のものともつかぬ、奇怪なお面が置いてある。
 香奈は「アンティークショップ」と言ったが、これではただの「骨董屋」か「ガラクタ屋」でしかない。
 そんな中、私の目を引くものがあった。
 それは、むしろ店の端の薄暗い棚に置いてあった、巻物だった。
 売り物とは思えないくらい、うっすらと埃が積もって白くなっている。
 私は、なんとなくその巻物を手にとって、ふぅ、と埃を吹き飛ばした。
 「なになに?凛ってば、そんなものが好きなの?」
 「別に……好きってわけじゃないけど………」
 なんだろう、何故か惹かれた。
 そして気が付くと、私は巻物を手にして店を後にしていた。
 こういうのを『憑かれた』というのだろうか?
 まだそれが何なのかすら分からない私の身の内には、しかしふつふつと恍惚感にも似たものが湧き上がってきていた。



 家に帰って早速巻物を開けようとすると、その幾重にも巻かれた紙の間から一枚の紙切れがはみ出していることに気づいた。
 何だろうと思って引っ張りだすと、それは巻物よりは比較的新しい紙で、何かメモ書きがされていることに気づいた。
 掠れた墨のようなもので書かれていて読みにくいことこの上ないが、よく読んでみるとどうやらこの巻物は呪いの巻物である、というようなことが書かれていた。
 呪い?
 さらに読んでいくと、詳しい呪いの方法のようなことが書かれていることが分かった。
 しかし。
 本当に呪いなどというものがあるだろうか?
 およそ現代の人たちのなかで、呪いなどというものを信じている人がいるとは思えない。
 よしんば、本当に呪いというものがあったとしても。
いや、呪いたい相手がいないわけではない。
 むしろ、殺したいほど憎い相手は、いる。
 同じクラスの海空(みそら)という女だ。
 クラスの中でもそして学校の中でもアイドルとして人気を集める彼女。
 私は彼女に恋人を奪われたことがある。
 以前からも何かと突っかかってくる彼女が、正直私は好きじゃなかったのだが、それ以上に私はそのとき、ショックを受けた。
 殺してやりたいとさえ、思ったし、今でもそう思っている部分が無いわけではない。
 だったらこの巻物は、あの女に報復するのには丁度いい。
 むしろ、あの女がこの巻物を試すのに丁度いい、か。
 しかし、と私は躊躇した。

 本当に呪いがあったら………。

 そう思うと、私はもう一歩が踏み出せなかった。
 別にあんな奴死んでしまえば。
 そう思うのだが。
 なぜか、怖かった。
 しかし、思いに反して、私の手は巻物に伸ばされている。
 そして、巻物を留める黒い紐に手をかけ。
 忌まわしい巻物の、封印を紐解いた。



 私の意識に反して、震える手はペンを握り、筆先を巻物の黄ばんだ表面に下ろそうとする。
 インクがぽつりと触れたところに染みをつくる。
 手が震えているためか、紙ががさがさしているためか、非常に書きづらい。
 まるでミミズののたくったような字が、紙の上にその姿を現し、一人の人間の名前を作り出す。
 ―――第一に己が名を記し、此の書と契約する。
 一字一字、しっかりと書いているつもりなのだが、それは私の字とは思えぬほど醜い字となる。
 ―――然らば、呪うべき相手を呪うに相応しい術が書き出される。
 やがて、私の名前は紙の上に浮かび上がるように書き出された。

              吉田 凛

 ―――すると、私が名前を書いたその隣の余白に、まるで蜃気楼のように文字が浮かび上がってきた。
 「…………………!」
単純に、一文。

 ――――明日を、待て。

 何だこれは?
 明日を待て?
 これが、呪い?
 私は急速に醒めてしまった。
 確かに、勝手に浮かび上がる文字は不思議だったし驚いたが、こんな簡単な方法を提示されて呪いとは。
 こんな簡単な呪いで人が死ぬなら今地球は人口問題などに悩まされているわけがない。
 「ふん」
 私はくるくると巻物を巻き取り、黒紐でぐるぐる巻きにすると、それをゴミ箱へ放り捨てた。



 しかし。
 いつものように学校に行った私は香奈の口から驚くべきことを告げられる。
 
「――海空が、事故に?」
 
「うん………意識不明の重体だって…………」
 沈痛な表情をする香奈に対して、私は実に複雑な表情をしていたことだろう。
 ―――明日を待て、っていうのはこういうことか…………。でも………。
 本当にこれが呪いのせいだとしたら、あの巻物は本当にすごいものなのかもしれない。
 私の中からは、昨夜心中をかき回していた罪悪感や焦燥感はすっかり消え去っていた。
 反対に鎌首を擡げたのは、新たな欲望。
 これさえあれば、私には怖いことなど何も無い。
 そう思うと私はいてもたってもいられなかった。
 「ごめん、香奈。ちょっと気分が悪くて、やっぱり帰るわ。先生に言っておいて」
 「え?ちょっと、凛!」
 私はカバンを取り上げると、さっさと学校を後にした。



 家に帰る道すがら、私は二人目のターゲットを決めた。
 私というものがありながら、海空などという奴にほいほいくっついていったあの男。
 よし、今度はあいつをあの世に送ってやろう。
 部屋のドアを開け、片隅のゴミ箱に近寄る。
 紙くずなどに埋没していた巻物を手に取った。

 否、手に取られたのは、私の腕だった(・・・・・・・ ・・・・・・)

 「―――うわぁ!?」
 いつの間にか黒い紐の解けた巻物は、僅かに広がり、その影から青白い、この世のものとは思えないような腕が伸び、私の腕をしっかりと掴んでいる。
 腕だけではなかった。
 血走った目が、紙の上でぬらぬらと有機的に光っていた。
 解けた紐は、本物の黒髪となってぞろぞろと振り乱されていた。

 青白い手は、私を強くひっぱった。

 「い、いや…………」
 必死に振りほどこうとするが、手が私を引く力はとても強く、とても抗えない。
 じわじわと、私の体はゴミ箱へと近づいていく。
 不意に、巻物が立ち上がった。
 「あ………うあ………」
 すでに私の口からは意味をなさない言葉しかこぼれてこない。
 立ち上がった巻物は、人のような姿を模していた。
 破れた紙が口のように開き、あるいは曲がった鷲鼻になり。
 青白い手が私の腕をしっかり掴んでいる。
 ぐい、とさらに強い力で引かれ、私は巻物の化け物に向かって倒れてしまった。
 その体にぶつかった瞬間、私の視界は真っ暗な闇に閉ざされ―――――



 どれくらいたったころだろう。
 不意に、光が戻った。
 突然の光にかすむ目をこらすと、私の目の前に一人の男が立っている。
 男は、私をじっと見下ろしていた。
 奇妙な男だ。
 身に纏ったスーツは限りなく黒に近い青。
 周りは殆ど闇なのに、男はその中でも僅かな光を反射して、青く青く、浮かび上がっている。
 その肌は病人のように青白い。
 眼鏡をかけているが、その透明なレンズにはスーツの闇が映りこみ、僅かに青く光っている。
 長い髪の毛を後ろでまとめているので一瞬女かとも思うほどの柳眉な面は、しかし険しくゆがめられている。

 「―――人を呪わば穴二つ、とは言うが………君の場合はただ墓穴を掘っただけ、といったところだな…………。」

 まるでそれ自体が闇を孕んでいるような、深い深い、低音の声だった。
 男はさげすむような瞳で、私を見下ろす。
 「君は愚かだ――吉田凛君………。人は、安易に呪いなどというものに手を出すべきではないのだよ」
 男は、煙草を一本咥えると、火をつけた。
 青ばかりの闇の中、そこにだけ赤い光が点る。
 「『尊ふとき経文のかかるありさまは、呪詛諸毒薬のかえつてその人に帰せし守敏僧都のよみ捨てられし経文にやと、夢ごころにおもひぬ』、か。よこしまな気持ちで使われる力なぞ、ろくなもんじゃないということかね…………」
 男の言葉は理解できない。
 分からない。
 分からない。
 私は、どうなった?
 あの化け物は、どこに行った?
 しかし、私の問いには誰も答えてくれない。
不意に男が手を伸ばし、私の視界は、又も暗闇に包まれた―――



 暗闇の中に、一人の男が立っている。
 足元には、古めかしい巻物が、転がっている。
 「……………むかつく」
 男はそう吐き捨てると、幾分か短くなった煙草を、ぽとりと、巻物の上に落とした。
 瞬間、ごう、と音を立てて、巻物は燃え上がった。
 紙が古く乾いていたためか、はたまた何か不可思議な力が働いたのか。
 燃え上がる燐炎は青く、紙が燃える炎ではない。
 ではやはり妖しの炎か。
 しかしそれを判ずるものはいない。
 いつの間にか男はいなくなっているし、少女はといえば。
 青々と天に立ち上る炎の中で、己の憎悪を燃やし尽くされているのだから。