現代百鬼袋 ―obakeno-hukuro―
第六夜 鉄鼠(てっそ)
頼豪の霊鼠と化と、世にしる所也。
鳥山石燕 「画図百鬼夜行 陽」
「先生、見てください!」
某大学の構内にある、私の考古学研究室のドアを勢いよく開けて入ってきたのは、助手である近藤だった。
「どうしたんだね、近藤君」
そう言いながらも、私の視線は近藤の持っている一つの書物に引き寄せられる。
「これですよ、これ。フィールドワークで行ったお寺の庫裏から見つけたんです。無理を言って持ち出させてもらったんですが……」
題名を見ると、知らない本だった。
だが、題名からその本の中身については大方の予想がつく。
「禅宗系の本だな……著者は誰だね?」
すると、近藤は宝物を見せびらかすような子どもの表情でその本を捲った。
そこには、「道希玄」の名が記されていた。
希玄とは、かの有名な道元禅師の号である。
他の禅師が書いたものならともかく、道元が書いたというなら知らないはずがない。
つまり、この本はまったく新しく発見されたものである可能性が高いということだ。
いや、絶対にそうだ、という確信があった。
だからこそ、私はあんなおろかなことをしてしまったのだ。
その夜、私の目の前の机には、例の本が置かれていた。
どうするべきだろう。
私がこの本を発見したと発表すれば、間違いなく私の名は売れる。
発表さえしてしまえば、助手である近藤が何を言おうが、その事実が覆ることはない。
その確信はあった。
しかし、と私は思う。
さしたる良いことの無かった人生を送ってきた私も、人並みの名誉や地位を手に入れ今この座に座っている。
学生たちからの信頼も厚い。
少なくとも、私はそう思っている。
自分の利益のために、その身上を壊してもよいものか。
とりあえず私が保管しようと言って預かった古書を前に、私は一晩中懊悩した。
翌日、私はある賭けに出ることにした。
同僚の教授にこっそりと例の本を見せたのだ。
「……どうしたんだね、これ?」
案の定、彼は食いついてきた。
「この前古寺に調査に行った折に見つけたのさ。近々発表するつもりなんだが……」
すると彼は、ほうするとこれは世紀の大発見というやつだな、などと呟き、
「では、後で記念に酒でも飲もうかね」
という言葉を残し、自分の研究室へと消えた。
「先生、どういうことですか!?」
案の定、近藤は慌てた様子で研究室に飛び込んできた。
おそらく学内は私の噂で持ちきりだっただろう。
彼もその噂を聞いた一人なのだ。
「先生が新しい道元の書を見つけたって聴いたんですが、それって僕が見つけたあの本 のことじゃないんですか!?」
矢継ぎ早にまくし立てる近藤に、私は用意しておいた言葉を投げるはずだった。
『いや、他の教授に君が新しい本を見つけた話をしたんだが、どうやら彼が私が発見したと勘違いしたようでね』
うまくいけば、彼も諦めるかもしれない。
世間の目が私に集まっているなら、いまさら彼が発表したところで手柄の横取り程度にしか思われないだろう。
しかし、私の口から出たのは、全く違う、冷酷な言葉だった。
「君などが発見したと発表するよりは、立場のしっかりした私が発表したほうが、あの本にとっても、幸せというものさ。君の努力はもちろん賞賛するがね」
自分で口にしておいて、私は大層動揺した。
しかし、私が何か弁明する前に、近藤は研究室を飛び出してしまっていた。
近藤の行方は、それからようとして知れない。
二、三日は気になっていたが、そうとなっては私もあまりゆっくりはしていられなくなった。
彼には悪いと思うが、こうなってしまった以上は私が発表するしかない。
私は、半ば自棄になっていた。
私は三日三晩掛けて本を読み、そしてさらに三日掛けて論文を作成した。
とにかく早く発表してしまうことだ。
発表してしまえばもう誰が何と言おうが、誰も信じはしない。
私は、必死だった。
そして学会の日。
私は徹夜で仕上げた論文の束と、例の本を大切に抱えて学会へ向かった。
未だに近藤の行方は分からない。
もともと交友関係の広い男ではなかったのか、別段騒ぎになる風でもないようだ。
そうして私は与えられた席に着いた。
大きく息を吐いて、私は名誉への一歩を踏み出す。
そして論文の束を捲ると。
パソコンで出力した活字が、まるで鼠に齧られたように虫食いになっていた。
「そ、そんな馬鹿な………確かに、印刷したときはちゃんと………」
しかもその穴は物理的に空いているのではなく、紙の上で、文字だけが綺麗に消したようになくなっているのだ。
一度確かに印刷された文字が、こんな消え方をするだろうか?
一大出世の場面で、私は頭の中が真っ白になり、その場に固まってしまったのだった。
大切なステージで失態を演じた私は、そのせいもあるのだろうか、嫌な夢を見るようになった。
眠っている私の枕元に、何か巨大な影が立っている。
人が屈んだくらいの大きさのそれは、背中を丸め、こちらをじっと見つめている。
その瞳は無機質な光を放っていて、それでいてどんよりと濁っていた。
やがてその輪郭がはっきりしてくると、それは大きな鼠であることがわかる。
しかし、その顔はまるで近藤にそっくりなのだ。
そんな夢を見ることが多くなったからだろうか。
私は日に日にやつれていった。
学会で失敗したという精神的苦痛もあったからかもしれない。
そしてある日、私は例の本をしまってあった研究室の隣の書庫に入った。
電気を点けて、私は驚愕する。
書庫中の本が、それこそ鼠にばらばらに齧られていたのだ。
一冊残らず、全て。
もちろんその中には、近藤から奪った形となった、例の本もあった。
否、この中ではもはやどれがその本だか分からないのだが。
そして、本来本が納められているべき棚には。
おびただしい数の鼠が、こちらをじっと見つめていた。
―――ガサリ。
紙くずの山が立てた音にビクリとしてそちらを見ると。
一際大きな鼠が、ずるり、と紙の下から這い出してくるのと、目があった。
それは、まさに夢で見たあの鼠で、
「こ、近藤…………!」
その姿は、まさしく近藤その人で。
その瞳は、どろりとした無機質な光を放っていた。
大鼠は、立ちすくむ私の喉笛に、喰らいついた。
数日後。
大学の裏の雑木林で、白骨化した二つの遺体が見つかった。
片方は教授、杉山のもの。
もう一つはその助手、近藤のもの。
どちらも、野鼠に食い荒らされ、死後数日しかたっていないにも関わらず、きれいな白骨になっていたという。