現代百鬼袋 ―obakeno-hukuro―
第七夜 襟立衣(えりたてごろも)
彦山の豊前坊、白峯の相模坊、大山の伯耆坊、いづなの三郎、富士太郎、その外木の葉天狗まで、羽団扇の風にしたがひなびくくらまの山の僧正坊のゑり立衣なるべしと、夢心に思ひぬ。
鳥山石燕「百器徒然袋 中」
舞台の上を舞うように振舞う彼女。
私たち同業の者たちからは、嫉妬と羨望の眼差しを、客席で見ている乙女たちからは、憧れと希望の眼差しを一身に受け、彼女はきらきらと光り輝く。
彼女はトップ女優。
演技の技術も、衣装のセンスも完璧だった。
だからこそ、私は彼女、寺島明美のことが、嫌いだった。
「ちょっと、監督、今のシーンもう一度やらせてもらってもいいかしら?」
またか、と私は表情には出さず毒づいた。
いつもの舞台稽古の風景。
いつものように、寺島の独壇場。
舞台稽古は彼女が納得するまで続けられる。
このシーンだってもう何十回やっているかわからない。
舞台監督は愛想笑いを浮かべているが、内心先に進みたいようだ。
もちろん、私以外の何人かの役者も、うんざりした表情を浮かべている。
それなのに彼女は私たちに檄を飛ばし、稽古を続けるのだ。
空気くらい読めないものか、と思う。
彼女は天狗だ。
舞台の上をまるで翔ぶように優雅に演技する。
どんな役だってまるで変化のように演じてしまう。
多くのファンに囲まれて笑う姿は、私の目には鼻の高い天狗にしか見えなかった。
そう、昔絵本で読んだ、牛若丸に武術を教えた、鞍馬山の天狗。
きっと、彼女は天狗にそだてられたのだ。
「秋葉さん、ちょっといいかしら?」
稽古も終ってみんな疲れきった顔で楽屋にもどり着替える。
そんな中、寺島は私に話しかけてきた。
「どうしたんですか?寺島さん」
「さっきの場面なんだけど……」
またか、と私は思った。
この女の頭の中には、芝居のことしかないのか。
そう思ったのが、顔に出たのかもしれない。
自分の考えをとつとつと語っていた彼女は不意に言葉を引っ込め、そして言った。
「秋葉さん、私のこと嫌いでしょ?」
「え………」
「でも、いいのよ。私は嫌われるほうが性に合っているんだから」
でも、と彼女は声に力を込めた。
「でも、個人の感情を舞台にまで持ち込まないで。舞台の上では、私たちは『役』でしかないんだから。舞台の上では私もあなたも、寺島明美でも、秋葉鈴でもないの。それを、あなたたちは忘れているわ」
私は、言い返せなかった。
その言葉は正論でしかなかったからだ。
寺島は、「それじゃあ、お疲れ様」とだけ言うと、私の前から姿を消した。
踵を返す瞬間、横顔の彼女の瞳は、いつもの切れ長で攻撃的な目とはうって変わった、悲しげな瞳だった。
それから、私は彼女に会う事はなかった。
彼女は、消えてしまったのだ。
あの日、私と別れてからの行方が知れない。
マスコミはやれ殺人だ、誘拐だなどと報道しているが、私はどちらでもないと思った。
きっと、彼女は天狗に隠されたのだ。
山から来た彼女は山へと帰っていった。
非常識なことと自分で思う一方で、私はそう確信していた。
主演を欠いた私たちは、これからどうするか連日話し合った。
結局、代役を立てて興行は続ける。
これが、私たちの出した結論だった。
そして、私はその主演に選ばれた。
彼女の後釜に座るのはどうも嫌だったが、これで彼女の鼻をあかせるとでも思えば、気分は良かった。
しかし、そううまくはいかなかった。
いざ演じてみると、どうもしっくりこない。
納得のいかない演技が続いた。
周りはほめてくれるが、私は「違う、そうじゃない」と煩悶を続けた。
そうして分かった。
天狗になっていたのは彼女じゃない、私だったんだ。
彼女よりもうまくやれる。
私にはそんな意識があったのかもしれない。
彼女の鼻を折ったつもりでいて、鼻を折られたのは私の方だったのだ。
数日後、私は皆が帰ったあとの客席に一人座っていた。
明日は、彼女が欠けた後の最初の興行。
なのに、私はまだ自分の演技に納得がいかないままだった。
「どうしたら……」
悔しくて仕方なかった。
私には、寺島のようにはなれなかった。
私の視界が涙に滲む。
と。
まだ煌々と明かりが照っている舞台の上に、一つの人影が躍り出た。
否、それは人影と呼べるのかどうか。
私の演じる役の衣装。
しかし、その衣装は私が今着ている。
リハーサルのときから着たままだった。
では、舞台の上のあれは何だ?
それは、寺島の衣装だった。
ただ、それだけ。
衣装はただ衣装だけで、ふわりと浮かんでいる。
中身は、ない。
つまり、衣装がひとりでに動いているのだ。
私は、目を疑った。
と、衣装がふわりと動き出した。
その動きは、私が一番納得のいかなかった一場面。
そう、いなくなる前の日、彼女が最後までこだわっていた場面。
ひらり、と衣装が横を向いたとき。
ドレスの立った襟の、その襟首に、すっと線が浮かび、開いた。
それは、目だ。
彼女の、あの高圧的な切れ長の目。
「寺島………さん?」
私はそう呟いた。
と、衣装の動きがぴたりと止まった。
しばらく動かなかった衣装は、また不意に動き出すと、最初の位置に戻る。
そして再び演技を最初からやり始めたのだ。
それは、やはり納得がいかない、というような様子で。
そんなことを何度続けただろうか。
最後に、私の目にも、素晴らしい演技だったと思える動きがあった。
声も、表情もない。
でも。それは私の目には完璧に映った。
そして、私は立ち上がると叫んだ。
「ブラボ――――――――!!」
その瞬間、衣装は、否、寺島は客席に向かって優雅に一礼すると。
ふわりと、そのまま舞台に落ちた。
まるで、操り人形の糸が切れたように。
静かに、空気を孕んで床に崩れ落ちる衣装。
そして、その衣装は二度と動かなかった。
次の日、私はメイクさんに驚かれた。
「ちょ、秋葉ちゃん、どうしたのその隈!」
鏡を見れば、私の目のしたにはくっきりとした隈がある。
それもそうだ。
前の晩、私は何度も何度も、あのシーンを練習したのだから。
結局、完徹になってしまった。
「メイクでどうにか隠せないですかね?」
「無理じゃあないけど………でも大丈夫?舞台の上で倒れないでよ?」
「大丈夫ですよ」
そういって、私は笑った。
きっと大丈夫な気がする。
私は、自分の衣装ではなく、彼女の衣装をまとって、舞台に出た。
結局、私は例のシーンも完璧にこなすことができた。
いや、完璧だったかどうかは分からない。
しかし、自分では今までで一番の出来だったと思う。
それもこれも、彼女のおかげだったというわけだ。
そして、私は少しだけ、彼女に対する認識を改めた。
もっとも、それはもう遅すぎるのかもしれないけど。
未だに、寺島の行方は分からないままだ。
でも、それでいいのだと思う。
彼女は、やはり天狗だったのだ。
鞍馬山の、僧正天狗。
彼女は私に、役者として大切なことを教えてくれたのだ。
私にとって、彼女は鞍馬天狗に他ならなかった。
だから、きっと彼女は今、御山で高笑いをしているに違いない。