世紀末〜1999年7ノ月

 

第零章       プロローグ

 

「うんんっ・・・・・・」

 パジャマ姿でカーテンを開け伸びをする。窓を開けると、まだ夏になりきれてない7月上旬特有の涼しい風がぬるまったい部屋に流れ込んだ。布団から出たばかりでまだぬくもりの残る肌には心地よく感じられる。

 部屋の壁に立て掛けられている時計を見ると、6時03分を指している。いつもならこんな朝早くに起きることなど有り得ない。自分が今日という日をどれだけ楽しみにしていたかがかなり分かりやすい形で表れている。なんだか遠足前の小学生みたいだと自分でも思うが、実際こんなに楽しみな日は今までに殆ど無かったのだからしょうがない。

そう、今日は本当に特別な日なのだ。

 勉強机に隣接した壁に貼られているカレンダーを見て笑うと、彼は鼻歌でも歌いそうな程上機嫌に部屋を出て行った。

 

 そう、今日は本当に特別な日なのだ。

 それが普通の中学生の日常の中の出来事でも、他人から見たら別に何でもない出来事でも、例えそれが人生を変えるような出来事でも、それがあくまで偶然の出来事でも。

例えそれが地球単位の出来事だとしても、

その日から明日があるのが当然でない非日常が始まるとしても。

否定することなど出来ない。何故なら今日は特別な日だからだ。

 

そう、今日は本当に特別な日なのだ・・・・・・。

 

 

今日は、1999年7月9日。

 

 

**********

 

 

「行ってきます!」

「車とか気をつけなよ」

「分かってるって!」

 そう言って、一人の少年が家から自転車で飛び出した。英語のロゴが入ったTシャツにジーパンという軽装に加えて背中にリュックを背負っている。

 彼の名前は「九島 新」。「くしま しん」と読む。

 別にどうということは無い、至って普通の中学2年生である。

 自転車を立ち漕ぎしながら腕時計で時間を確認する。

デジタル文字が7時32分28秒を表していた。集合時間は8時15分だから十分に間に合う時間である。

 だが、体中が沸々と興奮に埋め尽くされ自然と急いでしまう。あまりにも楽しみで急がずにはいられなかった。

 新の顔には隠しきれない期待と興奮が張り付いている。

 一体何がそんなに楽しみなのかというと、何てことは無い、ただ「友達と一緒に映画を見に行く」それだけである。別になにか裏が有るわけでもなく、純粋にそれだけだ。

 だが、昔から目立つタイプではない為か、友達と遊ぶ機会があまり無かった新にとってこれは一大イベントである。勿論友達と遠出することなど初めてであり、そもそも中学生にとっては映画を見に行くこと自体がちょっとした行事でもある訳であり。

 要するに、今日は友達と映画を見に行くとても楽しみにしていた日なのだ。張り切ってしまうのも当然という訳だ。

 終始立ち漕ぎしていた為、今日の行事の立案者の家に着いたのは7時45分、集合予定時間の30分前だった。

 はっきり言って早く着き過ぎである。

(早過ぎかな・・・・・・まずいかも)

 そう思いながら自転車を止め、横に植木鉢が沢山並んだ玄関の前に立った。呼び鈴を押すかどうか迷い始めたまさにその瞬間、

 どばん!

ドアがマッハを思わせるスピードで開いた。

『がちゃん』

「いよーう!新!随分早い到着だな!」

 出迎えたのは、今日の計画の立案者であり新と同級生である「大原 瑛(おおはら あきら)」という小柄な男子である。

「・・・・・・」

唐突な登場に新は暫く固まった。

たっぷり四秒経ってなんとか動きを取り戻し、

「・・・・・・だいぶ早く着いちゃったけど、大丈夫かな」

「いいっていいって全然平気だって、ほれほれ早く上がれよ」

「うん。・・・・・・お邪魔しまーす」

 因みに、瑛のドア捌きに見事に破壊された哀れな植木鉢は、この後瑛の手によって存在していた証拠を完璧に消去された。

 

 

**********

 

 

「ここ俺の部屋。汚いから覚悟しろよ」

「何の覚悟だよ」

 新が苦笑しながら部屋に入り、

「・・・・・・」

 固まった。

「だから言ったろ。覚悟しろって」

「・・・・・・うわぁ・・・・・・」

 床が無い。

 底抜けという意味ではない。見えないのである。物が散らかり過ぎて床が確認できない。殆どごみから壁が生えていると言って差し支えない状況である。

「ごみばっかだね。テレビ出れそう」

「ごみっていうなよ。一応使えるものしか置いてない筈だぞ」

 新は足元にある物を一つ拾い、

「これ何?」

「ああ、それCDのケース。踏んずけて割っちまった。中身はどっかいった」

「これ使えるもの?」

「うっ・・・・・・ま、まあそんなのもちょっとだけ混じってはいるな」

 新は足元にある物を一つ拾い、

「これ何?」

「ああ、それ昔着てた服。今はもう着れねえな」

「これ使えるもの?」

「むむ・・・・・・ほら、あれだ、思い出の品」

 新は足元にある物を一つ拾い、

「これ何?」

「ああ、それ中1の時の問題集。殆どやんなかったな」

「これ使えるもの?」

「いや使えない。いらね。ごみ。」

「・・・・・・これは即答なんだ」

 やってもいないのに、と新が問題集を手にして呆れていると、

「邪魔しに来たぞ!」

 玄関の方から下手をしたら追い返されかねない妙な台詞が聞こえた。

 今日のもう一人のメンバー、木暮嬉嬉の到着である。因みに「こぐれ よしき」と読む。よく「きき」とか「うれき」とか「うれうれ」とか間違えられるが、はっきり言ってこれはもうしょうがない。一発で「よしき」と読めという方が無理だ。

 性格はとても単純でありながらとても個性的である。というか単純過ぎてそれが強烈な個性となっているという方が正しい。

「大将のご到着か」

 瑛がそう言ったのとほぼ同時に嬉嬉が部屋に顔を出した。

「う〜す!うっわ、相変わらず汚えなこの部屋!」

 物の山をがちゃがちゃ上ってきた嬉嬉は埋まりかけたソファーにどかりと座った。他人の家だろうがお構いナシである。

「うるっせーなあ、お前の部屋の方がよっぽど汚そうだぞ!」

 確かに、と新は密かに思った。ここを超える汚さの部屋というのはちょっと想像出来ないが、嬉嬉なら在り得そうな気もする。

「汚くないとは言わんがココよりは確実にマシだぜ」

「ウソつけ。お前の部屋ならミミズとネズミとアリとカエルとトカゲとガとハエとウジとモグラがいたって誰も驚かねえぞ」

「いや驚くだろ!ってかそこまで言うなよ!」

「むしろお前の父親アウストラロピテクスだしな」

「むしろで繋げる意味が分かんねーよ!」

「しかも母親は北京原人♂」

「♂かよ!?気味悪りぃよ!それ父親だろ!」

「そして家の敷地は10000坪」

「広っ!」

「しかし部屋割りは一畳ずつ」

「狭っ!迷路じゃん!」

「ただし友達はいない」

「マジで!?」

「強いて言うなら自分が友達」

「最悪じゃん!」

「否定しねぇってことはそれがお前の真実か・・・・・・」

「おいコラ待て!今オレに否定する暇明らかに無かったろ!」

 この二人が話すといつもこうである。瑛のやや厳しい冗談に嬉嬉の単純なツッコミ(もしくは嬉嬉の天然ボケに瑛の毒舌ツッコミ)が合わさり、良く言えば絶妙な、悪く言えば微妙な会話のキャッチボールが成立している。因みにこの二人の会話、見聞きしている側としてはかなり面白い。

 ただ欠点はなかなか終わらないことである。

「ところで瑛、お前何持ってく?」

「あ?まぁ、取り敢えず割引チケットと財布。あと時計。他は・・・・・・一応ゲームボーイ持ってっとくか、暇になるだろうしな」

「あっ。俺財布持ってきてねえや。瑛、俺の分の金も頼むぜ」

「はあ!?お前馬鹿じゃねえの!?馬鹿だけどさ!」

「映画用と買い物用な」

「あのなあ!確かにお前は究極に馬鹿でアホで間抜けでお前この世の人間かよって奴だけどさ!それは認めるよ!だけどな、財布くらい持って来いよ頼むから!」

「取り敢えず俺はこの世の人間だ」

「答えんのそこかよ!」

「多分その筈だ」

「しかも多分かよ!」

「で、金頼むな」

「ちっ・・・・・・利子30%だ」

「まあ、それ位なら」

「30秒でな」

「早過ぎだろ!」

「分かったよ、1分70%にまけてやる」

「ああ、それならいいや」

「・・・・・・・・・・・・真正の馬鹿だなお前。きっと歴史的価値が付くぞ」

「それ褒めてんのか?」

「さーな。まーせいぜいお前に価値が付くとしたら・・・・・・」

やはり終わる気配を見せないので、新が本来の目的を持ち出した。

「ねぇ、全員揃ったんだしそろそろ行かない?」

 新の言葉でやっと二人の口も止まった。

「そうだな、ちっと早いけどいっか」

 瑛はドアから顔を出し、

「おーい、母さん、車ぁ!」

 やや間を置いて、奥の方からはーいという返事が聞こえた。

「ところで嬉嬉、もしかしてゲームは持って来たのか?」

「ああ」

 いきなり瑛が嬉嬉の脛を蹴った。

「あだ!何すんだよ!」

「先に財布持って来い!」

「うっかりだようっかり!」

「お前の場合しっかりだろ!少しは新を見習え!」

 びしっ、と音がしそうな勢いで瑛に勢いよく指された新を見て、嬉嬉はあくまで真面目に尋ねた。

「新は財布持って来たのか?」

「そりゃまあ、持って来たけど」

「ゲームは・・・・・・って聞くまでもねえか、新なら」

「うん、これ」

 新は傍らに置かれたリュックを持ち上げた。

 少し親しい人なら知っているが、新はかなりのゲームマニアでジャンルを問わずゲームなら全てにおいてトップクラスの腕を持っている。まあ、いわゆるゲーマーである。

「持って来てるに決まってんだろ、新だぞ」

 瑛の言葉に、自分はもう完璧にゲーマーというレッテルを貼られてるなあと苦笑いする。別に新はゲーマーと呼ばれる立場になりたくてなった訳ではない。ただ小学生の時に当時全盛期のスーパーファミリーコンピュータ、もといスーファミに出会い、ゲームって面白いなあと思ったのをきっかけにRPGから始まり様々なジャンルに発展していったのである。それだけならまだゲーム好きで済んだのかもしれないが、ゲーム業界の発展の早さと新の驚異的なクリア時間の速さが合わさり、ゲームの数がどんどん増え、今では本棚に収まりきらないぐらいになっている。クリアの速さはおよそ常人の3倍(瑛・嬉嬉比)。才能があったということだろう。

 つまり、新はゲームの天才という訳だ。

 だがはっきり言ってあまり嬉しい才能ではない。どうせならもう少し将来性のある才能が欲しかったと今でも思っている。

 なんとなく溜め息をつくと、こんこん、と瑛の部屋のドアがノックされた。

「あい」

瑛が返事をすると、瑛の母親がドア越しに車の準備できたわよ、と言った。

「ああ、今行く」

 瑛は足元からリュックを取り出し、そこら辺にある物を適当且つ無造作に詰め込み始めた。・・・・・・ようにしか新には見えないが、入れている物から見てきちんと選んでいるようだ。

「おっしゃ、行くか!」

入れ終わったリュックを背負い瑛が立ち上がると、

「うし!」

「そうだね」

 と二人も立ち上がった。

 瑛、嬉嬉、新の順で瑛の部屋を出る。

 

 

今日は初めて友達と映画に見に行く、新にとってあくまで日常の中の特別な日。

日常はいつか変わる。

時にはそれは突然訪れる。

 

 

夏の始まりを知らせる蝉が、叫ぶように一回だけ鳴いた。