第一章 日常の変化

 

「何いいいいいいいいいいいいいいい!!!!!」

 父のどでかい声に、新は思わず首を竦めた。空気の振動でコップの中の牛乳が揺れる。

「こ、この阿呆!よりによって・・・・・・!!」

 体をわなわな震わせながら、新の父は怒りを露にしている。新はさっきからずっと椅子に座り俯いたままだ。

「おおお前って奴は!!!忘れる奴があるか!!」

 今日の映画を見た後、新はとんでもないミスをした。

 映画を見る時、椅子に座るからリュックを下ろす。まあ当然である。

だが問題はその後だ。それを下に置いた事を忘れてはならないのだ。

新は思いっきり忘れていた。

つまり、新は映画館にゲームが詰まったリュックを持ち帰らずに置いてきてしまったのである。

最悪レベルの大失敗だ。

「今すぐ電話しろ!!」

 断っておくが、新の父が激昂しているのは息子の失敗を怒っているからではない。自分のゲームの為である。

 新の父はゲームクリエイターであり、一般には珍しいゲームラブな大人である。子供達に夢を与える為にこの仕事に就いたらしいが、結局は自分もゲームが好きだからというのが大きい。新がゲームをするようになったのもこの父の影響が少なからずあるのだろう。

 ただ、そこまで好きなくせにゲーム機本体は新と共用なのだ。前に新は何故自分のを買わないのかと聞いてみたことがあるが、父曰く「資金の問題」らしい。

要するに、ゲームボ−イも一緒に使っているので新が無くしたとしたら自分も出来ないのだ。

「くそ!もういい俺がする!」

 言うが早いか、新の父は受話器を手に取り、本体ががたつくような勢いでボタンを押し始めた。

 その後ろで父の(いか)らせた背中を見つめ、新は激しい後悔に沈んでいた。

(ああー・・・・・・本当にばかなことした・・・・・・何やってんだろ・・・・・・最悪・・・・・・無くなってたらどうしよう・・・・・・でもあんなの持ってく人いるのかな・・・・・・いや盗む人はリュックの中身なんて見ないか・・・・・・ああぁーどうしよう・・・・・・)

 椅子に座ったまま暫く悶々としていると、

「あった!?本当ですか!?」

 聞こえてきた父の声に新はがばっと身を起こした。

「ええ!・・・はい!・・・・・・そうそれです!・・・・・・はい!すいません、ご迷惑をおかけして・・・・・・本当に申し訳ありませんでした。・・・はい、では明日にでもそちらに向かいますので」

それから「有り難う御座います」「すみませんでした」という意味の言葉を五回程言って、新の父は受話器を置いた。そのまま一つ大きな溜め息を吐いて振り返り、

「あったってよ」

と、新に重々しく呟いた。

「・・・・・・あったんだ」

新は安堵の溜め息を吐き、椅子にぐたりともたれかかった。中学生になった今も一日の生活が学校と食事と睡眠とゲームで構成されている新にとっては、まさに首が繋がったような気持ちである。

結局、新の父が仕事の帰りに取りに行くことになり、新は父に二時間説教されるという形で話は落ち着いた。

 

 

7月10日、次の日。

 

「・・・・・・ばっかだなー」

 学校に来て、ゲームを忘れたことを瑛と嬉嬉に話した後の第一声がこれだった。

「そーいやあん時、新なんも持って無かったよな」

と顎に手を当てながら嬉嬉。

「お前にとっちゃ命の次のもんだろー?そんな大事なもん忘れんなよ」

と呆れながら瑛。

「あの中、カセット相当入ってるだろ。50個ぐらい。失くしたら一体いくらの損なんだ?」

 そう言って嬉嬉が指を使って数え始めると、

「止めとけ、お前の頭じゃ無理だ」

と、瑛が嬉嬉の左肩に優しく右手を置いて、諭すように酷いことを言った。

「あー・・・確かに万を超えたら俺の専門外だな」

「・・・・・・そこ納得していいの?」

今度は新が呆れていると、

「計算ならそこに計算機がいるだろ」

「計算機?」

 瑛の言葉に新と嬉嬉が同時に聞き、瑛の視線の先にいる人物に目をやった。

「なー、霞ぃ。ええっと、カセット一つ3000円だとして、3000×50はー?」

「・・・・・・150000」

 瑛が話しかけた女子はこちらを向くことすらせず、かなり無愛想に言った。

 彼女は知る人ぞ知る有名人、君山霞(きみやま かすみ)である。

「じゃ5000×48はー?」

「・・・・・・240000」

 相変わらずの無表情に相変わらずのぶっきらぼうな喋り方をする。

これといった表情は殆ど無く、休み時間などはいつも机に頬杖をついてじっと外(空?)を見つめている。もともと色白で整った顔立ちをしているので、ずっと微動だにせずにいるその様はまるでリアルな人形である。はっきり言ってちょっと怖い。

「おうし!6172×58は!」

「・・・・・・357976」

 そして彼女は定期テストや実力テストその他諸々で、偏差値70をいったりするとかしないとか。平均が70点ぐらいの中学のテストで一体どうやったら偏差値70をとれるのか甚だ疑問だが、まぁあくまで噂である。気にしない。

「んじゃあ、7896×65!」

「・・・・・・513240」

 そういう人だから友達も少ない。なにせ「無口で無愛想で無表情で常にじっとしている異様に頭のいい人」である。普通なら避け気味になる。更に、一人でいることが寂しそうには到底見えないことも拍車をかけている。

 が、例外として、彼女は瑛と(おまけとして新と嬉嬉)だけは口を利いていた。といっても自分から話したりする訳では決して無く、せいぜい言われたことに返答をするぐらいだが、無口を通り越して無視すらする彼女には十分に珍しい反応である。

「うーむ……次は……」

 ただし、それに何か意味がある訳では無く、瑛と霞が幼馴染だから、というだけである。それなりに小さい頃からの仲らしいが、霞の態度からして仲が睦まじい関係とは思えない。確かに霞は瑛達と喋るが、親しくしようとする態度は一切見せていない。むしろ瑛の方が何かある度に霞に話しかけようとしているように見えた。

「285019235×769だ!」

 そういう訳なので、周囲の人達には瑛と霞の関係は片思いと勝手に認識されていた。

「おい!もういいだろ!値段がゲームじゃなくなってるぞ!」

「……よく分かったな、お前」

「あのなあ……」

嬉嬉のツッコミで話は止まったが、新の耳にはしっかり「……219179791715」と聞こえていた。

(……ホント中学生とは思えないよなあ、君山さんって)

 新がその当人を見ながら苦笑いし、

(あー、早くゲーム帰ってこないかな……)

と自分の都合に思いを巡らしていると、

「嬉嬉!」

 背中から威圧感を感じさせるような女子の声が響いた。

 振り返った嬉嬉は、声の主を見てこれ以上無い程心底嫌そうな顔をする。

「昨日言った委員会のプリント、忘れてないわよね?」

 声の主は嬉嬉の表情など全く気にせずに、あくまで事務的に訊ねる。

嬉嬉は数秒考えた後、相手に背を向け、

「忘れた。どっかいっちまったよあんなも」

 その脇腹に声の主からの手加減なしの蹴りが入った。

「のごぉヴァッ!?」

 新の隣の席の人の机を派手に倒しながら嬉嬉は転倒したが、脇腹を押さえながらすぐに立ち上がり、

「い、いってえな!!何しやがる!!」

「昨日あれだけ言ったのに何で持ってこないのよ!締め切り今日だって言ったじゃない!!」

「いーじゃねーか別に!俺の勝手だろ!」

「よかないし勝手じゃない!あれだけ言って何で忘れるわけ!?あんたには責任のセの字もないの!?」

この怒鳴り散らしている女子は「有流(ある)(かわ) 由紀(ゆき)」という。

一言に集約すれば『普段は真面目な』嬉嬉の喧嘩相手である。

二人は何から何まですぐ喧嘩する。つまるところ互いに頑固なのが一番の原因なのだが、罵声やら拳やら蹴りやら果ては凶器まで飛び交うこの二人の喧嘩に巻き添えを覚悟してまで止めようとする者はクラス内にいない。

要するに、この二人の喧嘩は始まったらなかなか止まらない。

「だったら自分でやりゃいいじゃねえか!俺に任せんな!」

「出来たらやってるわよ!あんたしか出来る奴いないから任せてんのよ!この単細胞!馬鹿!阿呆!」

「ンだと、てめえ!女だと思って甘く見てりゃいい気になりやがって!」

「何よ本当のことじゃない!大体あんた甘く見てなんかいないでしょ!」

「うるせえ!ここで積年の恨み晴らしてやってもいいんだぞ!!」

「フン!私に喧嘩で勝ったこと無いくせに!」

 二人が言うには、嬉嬉はあいつの細かいことにいちいちうるさいことが、由紀はあいつの何でも適当に済まそうとすることが、それぞれ気に入らないらしい。まあ、合わない性格の代表例といえる。

 二人の背景に稲妻が走りそうな、一触即発の睨み合いが開始された。

 そろそろヤバイ、とクラス中の全員が思い始めた時、実にタイミングよく担任の先生が入ってきた。

 何事も無かったかのように散らばっていた生徒達ががたがたと席に着き始め、二人は睨み合ったまま(不幸なことに隣り合わせの)席に座り、

「クソ女」

「単細胞」

と、捨て台詞を吐いて今回の喧嘩は『非常に珍しいことに』早々に終了した。

 何事も無かったことに密かに心の中で安堵した新は、視線を嬉嬉達から先生に移した。

 新のクラスの担任は体育担当で、年を感じさせない元気で筋肉質の体をしている。体育の先生だからなのか、割と大雑把な性格で生徒からはまあまあ人気である。いつになっても細かい先生よりはいい加減な先生のほうが人気が出るものである。

 先生は持ってきたプリントをがさごそさせた後に、

「あ〜、言い忘れてたが、明日英語の単語テストがあるらしい!勉強しとけよ!」

 ――だが、こういうことを忘れてしまうのは困る。

 いきなりの話に不満を漏らす生徒たちを尻目に、先生は手に持っているプリントを見ながら感心無さげな声で言った。

「あー、100問中70問出来て合格らしい。頑張れ」

 問題の多さに一層不満の声が高まる。

 そんな中、

「先生!教科書見ていいっすか!?」

 どう考えてもおかしい質問が飛んだ。

先生は呆れ、生徒は誰が言ったか一瞬で理解した。こんな質問をするのはあいつしかいない。

 嬉嬉だ。

「木暮!お前なぁ、いつもいつもそういう馬鹿げた質問するな!俺が疲れんだよ!」

「はい!」

 どういう意味の「はい」なのかは誰にも分からない。

 呆れ顔のまま先生はその他の連絡事項を伝え、溜め息を()きながら教室を出て行った。

 

それから一時限目が始まったが、新は頭の中が今日帰ってくるはずのゲームのことで一杯で殆ど何もせずに終わってしまった。

そして今日の学校生活は全てそんな状態だった。

 

 

**********

 

 

「た、たただい、ま!」

 自分の体力を気にせずずっと走って帰ってきたので激しく息が切れ、「ただいま」という言葉すら変にどもってしまった。

 妙な声に、台所から顔を出した母を見つけると同時に聞く。

「あ、あれは?ゲームは?」

「……あっち」

 溜め息をついて母は居間を指した。早足でそこへ行くと、父がテレビゲームをしていた。普通の家庭ならやはり珍しい光景であるが、この家ではそうでもない。

 居間の壁に立てかけられている見慣れたリュックを見つけ、新がそれを手に取ると、

「おい、もう二度と忘れんなよ」

と父が視線をテレビから外さずに言った。

「うん、ありがとう」

 礼を言って居間を出て、また早足で二階の部屋へ向かう。

 

 部屋に入り、適当に着替えて椅子に座った。リュックから一日振りに目にするゲームボーイを取り出す。

(さて……一日空いた分取り戻そうか)

ちょっと懐かしい感覚に自然と顔が笑うのを自覚しながら、カセットを入れようと手を動かした、

その瞬間、

 

 ――日常が、変わった。

 

「ふぃー、あっつかった!」

 

「!?」

 いきなり聞こえた声にぎょっとして辺りを見回す。

部屋の中に誰かいるのかと思ったが、六畳分しかない部屋の中には誰の姿も見えない。窓の外も一応見てみるが、日が落ちかけたいつもの空が見えるだけでやはり誰もいない。

 勿論自分の声では無いし、動物の声でも物音でもない。

(……気のせいか)

 そう思い直し、無理矢理自分を納得させる。

 カセットに伸ばしかけた手を再び伸ばそうとして、

 

「このバック、密封されすぎだっての。中すげー蒸してんぞ」

 

「……!!?」

 空耳では無い。

 今、人の声が聞こえた。

 今度は間違いない。

 しかし、周りにはやはり誰の姿も無い。外や一階の声にしては大きくはっきりしすぎている。

 ――そもそも今の声、自分のすぐ近くで聞こえたような感じがした。

 というか……。

 手の辺り、から。

 今、自分の手には――。

 

 常識から物事を判断する頭が、理解できない、ありえないと必死に訴えている。

 周囲の音が遠のいていくような気がする。

 新は、ゆっくりと視線を手に持っている物に向けた。

(……顔……?)

 手に持っている『それ』の、本来映像が映る筈の所。

(顔……が……)

 漫画で描かれるような、ふざけているような簡単な顔が映っている。

 視線だけで電源を確かめる。

 当然入っていない。

 カセットも入れていない。

 ――動く筈が、無い。

 その顔の目が動き、混乱している新の視線と重なった。

「よ」

「……!!?」

 ……喋りかけた?

「あ〜っと……確か、新、つったっけ?はじめまして」

 ……気のせいだ、何かの冗談だ、きっと夢だ。

 頭が必死に目の前のありえない事実を否定している。

「呆然としてんなー……意識あるか?」

 無い。きっと無い。

 これはありえない、ある訳無いことである以上、自分は気を失ったか何かして夢を見ているのだ。

 そうに決まっている。

「まあしゃーないかもなぁ……いきなりじゃな……まいいや、取り敢えずあんたの顔から推測して一つ言わしてもらうけど」

 

 捻じれかけた開放日常(アスペクト)が認識できなくなり、自壊しそうな常識の渦が所々に生成され、収斂された現実が遠のき始める。留めようとしている中に、

 

「これ、夢じゃないからな」

 

「……」

 崩れそうな常識で引き止めていた(たが)が、外れた。

 

 

 僕の、ゲームボーイは、

 

 

 喋るようになってしまった。