第二章 能力
瑛の手が新の額に置かれる。
「ふーむ……熱はないか」
翌日、学校で新の『喋るゲームボーイ』の話を聞いた瑛の第一行動がそれだった。新はその手を軽く払い、
「ほんとだって!嘘じゃないよ!」
「おいおい、常識で考えろよ。ないない。ある訳ない。おおかた間違って電源入って見間違えたかなんかだよ」
「ちゃんと確かめたよ!」
「んなこと言ったってなあ……なあおい、嬉嬉。……おい、嬉嬉!」
「……んん?」
一時限目前だというのに早くも机で居眠りしていた嬉嬉が頭を持ち上げ、ぼーっとしながら周囲を見回し、やがてこちらを向いた。大口を開けて欠伸をした後、
「……何だよ?」
「新のゲームボーイが、喋るようになっちまったんだとよ」
「…………は?」
「だから、新のゲームボーイが喋るようになっちまったんだとよ」
「…………へ?」
「だから、新のゲームボーイが、喋るようになっちまったんだとよ」
「…………あ?」
「だから新のゲームボーイが喋るようになっちまったんだとよ」
「…………え?」
「いやもういい。お前に話した俺が馬鹿だった。寝てていいぞ。そしてもう起きるな」
「待て待て待て落ち着け。なんだそりゃ、どういう意味だ?」
「何回同じこと言わせるつもりだ?」
「5回かな」
「…………………。だからだな、新のゲームボーイが嬉嬉のアホぶりを突然語りだしたんだと」
「……それはつまり、新のゲームボーイが喋るようになっちまったと?」
「なんでこういう時に限って突っ込まないんだよ……まあ、そういうことだ。そう新が言ってるんだが」
嬉嬉が席を立ち、近くに来て新の額に手を置いた。
「……熱があるわけじゃないみたいだな」
「二人揃って同じことしないでよ!」
途端に新が反抗する。それをうまくかわした嬉嬉が、
「いや、常識で考えれば普通はこういう反応を……」
言い終わる前に急に瑛が悶絶し始めた。
「うああ、お前と同じ行動を取っちまったなんてお前から借りた本来無臭の消しゴムが表現しがたい異臭を放ってた時と同じぐらい気持ち悪い」
「意味分かんねえ例え出すな!いつだよそれ!ってかそんな時ねえだろ!」
「もしくはお前にノートを貸すと必ず上履きで踏んづけた後をどこかに見つけるのと同じくらい悲しい」
「俺から離れろ!」
「そういうこと言ってっからお前は誰も友達いないんだよ」
「そういう意味じゃねえよ!っつーかおい、お前は俺の友達じゃないのかよ!?」
相変わらずこの二人の話は止まる気配が無い。
「……ところで、二人ともさ、信じてくれた?」
「ああ、そういやその話だったな。おい嬉嬉、もうその話止めて話戻そうぜ」
「終わりかよ!?ちょっと待ってくれよ、何か俺だけがやけにむなしくなる終わり方してねえ!?」
嬉嬉の必死の抗議を爽やかにスルーしながら、瑛が新の肩をぽんぽんと叩きながら言った。
「よし、信じた。信じたぞ。ただ今度はもっと面白いネタになる話をしような」
「駄目じゃん!信じてないじゃないか!本気で言って、どうなのさ!?」
いつものテンションで話していた瑛が、新の冗談にしては真剣な声に僅かに笑みを消した。溜め息なのか唸ったのかよく分からない低い息を吐くと、
「……なあ、新。お前さ、この際はっきり言っとくけど」
視線を新に向けた。
「分かってるか?そういう話を信じろってのは、嬉嬉は実は人間だってのと同じぐらい無理があるぜ?」
「俺は人間だよ!お前俺の事何だと思ってんだ!?くそ、今なんか真面目なこと言うと思ったのによ!」
「おい嬉嬉!お前のキャラのせいで真面目な答えが台無しじゃねえか!」
「俺!?俺のせいか!?俺のキャラのせいかよ!?なんか理不尽じゃねえ!?」
「ねえ、だからさ!お願いだから話曲げないでよ例え無理でもってか無理って分かってるけど!」
新がやや大きな声で言うのと同時に教室の前の扉が開いた。
当然の如く、急速に教室内部は水を打ったように静まり返る。全員が各々の席に着き始め、瑛と嬉嬉も「じゃ」「あーくそめんどくせー」と言って席にもどっていった。教科書類を出す音がごそごそと暫く鳴る。今日の1時限目は英語で、いつもどおりの先生がいつも通り授業を始める。
「はい、じゃ、あー……80ページ開いて」
だが、新の頭には授業を聞いているような余裕は無かった。
(全く……でもやっぱ信じろってのが変なのかなあ)
「おかしいな、この写真嬉嬉がいないぞ」
「なんで俺がいんだよ!俺はこれか、アボリジニか!?」
「おい大原と木暮、うるさい!」
(そりゃあ、僕だって訳分かんないこと言ってるのは分かってるけどさ……)
「……?おい木暮、何読んでんだ?」
「え?『うまくなる野球 発展編』です」
「今は英語の時間だ!」
「はーい……今しまいます」
(目の前で起きたんだから……信じるしか無いじゃん)
「うっわ、嬉嬉の机の中汚ねえな!」
「いーじゃねーか、瑛のだって大して変わらねーだろ」
「でもなんかお前の場合カビパンとかありそうだよな。そーゆう机の中の定番アイテム」
「ねーよ!いいか、俺はな、食べ物と言う存在を人類が生きることに最も重要な要素だと」
「おい!だから静かにしろ!」
(僕だって、勘違いだって思いたいよ)
「全くいつもいつもこの二人は!木暮!今何をすべきか言ってみろ!」
「ジャンケン大会です」
「……」
(勘違いであって……くれないかなあ……でも昨日あれだけはっきり見たしなあ……。それとも、ほんとに僕頭おかしくなっちゃったのかな……。なんか、まだそっちの方がありえそうな気がするけど)
「……おい、木暮」
「分かりません」
「まだ何も言ってないだろ!80ページ読んでみろ!」
「……」
「……」
「……………」
「……………」
「………………………………」
「………………………………全く、普段授業聞いてないから読めないんだ」
「え、読んでますよ?」
「黙読してどうすんだ!朗読すんだよ!」
「多少ドンマイっすよ、先生」
「お前がいう台詞じゃないだろ!」
(今日家に帰ったら実はなんでもなかったりして……あーもう、そうだ、きっとそうだよ。馬鹿馬鹿しい。もういいや、僕が頭おかしくても違くても今日帰れば分かるんだから)
チャイムが鳴った。
その音で新も我に返る。
(あ、授業全然聞いてない)
一瞬まずいと思ったが、すぐに思い直した。どうせこのクラスのことだから、また瑛と嬉嬉のコンビのせいで授業は殆ど進んでないだろう。いつものことなので大して気にはしてない。……まあ、最近になってそろそろ成績に響いてくるのではないかと内心ハラハラしてきてもいるが。
溜め息を吐く。
(気のせい……だったらいいなあ……)
**********
カナカナとひぐらしの鳴き声がする。
こいつらがうるさくなり始めると、夏になったんだなあ、とつくづく思う。何処にいるのか姿を見せないくせにいやにはっきりと響く。
体がだるいのは部活のせいだけではないだろう。
左右が二メートルほどのブロック塀で囲まれた直線の道路を力なく歩いてゆく。
しかし、こうして落ち着いて(というよりぼんやりと)考えてみれば、昼間の自分は少し混乱しすぎだったと思う。信じろと言っている自分を思い返すとなんだか本気で馬鹿馬鹿しい。そもそも自分が完全に納得しているわけではないのに、他人に理解してもらうというのははなから無理に決まっているはずだ。
まずは、自分で事実を確かめなければ。
夢か、現実か。
もし現実だったら明日病院に行こうと本気で思う。
『ありえない』んだから。
自宅の玄関についた。
「……」
ドアノブに手をかける。
……もし開けた瞬間にゲームボーイが立っていたらどうしよう。ひょっとしたら喋りかけてきたりするんじゃないか。「よう、おかえり」とか言ってあの画面に出た目だけで笑いながら無邪気そうな振りをしてこっちに向かって歩き出して近付いてきていきなり飛び上がって顔をつかまれてそのまま異次元に連れて行かれたりとかなんかそんなことがいやいや。落ち着け。考えすぎだ。
……多分。
1回だけ深呼吸をする。
……。
よし。
心を決めた。
ドアノブにかけたままだった手に力を入れ、開ける。
「ただいまー」
「よう。おかえり」
見知らぬ声が、
閉めた。
……………………。
大丈夫だ。何も聞こえなかった。僕は何も聞こえていない。
1回だけ深呼吸をする。
……。
よし。
心を堅く決めた。
ドアノブにかけたままだった手に力を入れ、開ける。
「ただいまー」
当たり前の、普段の玄関があった。
なんとなく周囲に気を配る。
特に変化は見られない。
正面に見える台所から新の母が顔を出し、
「あれ?さっきただいまって言わなかった?」
「ああうん、言ったけど、なんでもない」
「……?ふーん。おかえり」
再び顔を戻した。
なんとなく、もう一度辺りを見回す。
やはり、いつも通りの、何も変わらない自分の家の玄関だ。
「……よし」
意味もなく頷く。大丈夫だ。僕は間違いなく何も聞いちゃいなかった。
昨日のことは、気のせいだったんだ。
背中の冷や汗を無視して靴を脱ぎ、階段に向かおうと歩き出し、
「おいちょっと、何で閉めるんだよ」
背後の声に、固まった。
一瞬で背中の冷や汗が全身に回った。
この時間に新の父親が帰ってくるはずはない。今家に居るのは新と母親だけで、それ以外に人は居ないはずだ。
母親の声ではないし、勿論新の声ではない。
じゃあ誰だ。
目眩がしそうだった。
振り返りたくなかった。
だが、
「おい……おいって」
振り返らないと、分からない。
認めたくない。
夢のはずなのに。
新は、ゆっくり、これ以上ないほどぎこちなく、時間をかけて振り返った。
ゲームボーイが、立っていた。
足を生やして。手も生やして。
画面には冗談のような簡単な目を映し出して。
「何だよそんな目して……まだ疑ってんのか」
間違いなく、こいつの声。
もう理性の限界だった。
新は、振り返ると全速力で階段を駆け上がっていった。
何か声が聞こえた気がしたが、それにかまっている余裕はなかった。
足を動かさないと、本当に叫び出しそうだった。
部屋に入ると、そのままベッドに倒れこんだ。
頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。
どうなってるんだよ。
何なんだよ。
一体、どうしたっていうんだよ。
掛け布団に顔をうずめたまま、唸り声のような息を吐く。
「まあ……信じられないのも分かるけどな」
突然入り口辺りから声がした。が、顔を上げる気にはならなかった。あの手足でどうやって階段を上ったのか突っ込む気も起きない。
「……なあ、頼むよ、ちっと話聞いてくれよ」
「……聞いてるよ」
「いや、こっち向けって。ほらほら。大丈夫だって、あんたには一切危害加えないから」
嘘つけ。ゲームボーイが喋って二足歩行してるだけで十分に危害を加えてるよ、と心の中で思う。
とりあえず、
「……いやだ」
とだけ答えた。
目の前にあるであろう光景を見たら、認めざるを得なくなる。
見たくない。
「おーい……頼むよマジさあ、ホント」
「……君って、なんなんだよ」
顔をうずめたまま質問する。
「へ?」
「……どうなってんのさ。何で喋ってんの?」
「いきなりだな……さーなあ、何でっつったって、喋れるからとしか言えねーなー」
「……君はゲームボーイのはずだよね?」
「え?あ、これそう言うのか」
「え?」
「いや何でもない。そうだけどなんだ?」
「……ゲームボーイってモノは動いたり喋ったりしちゃいけないんだよ、絶対」
「……いや、我慢してくれよ」
「……」
「なあ、別にあんたを取って食おうって訳じゃないんだ」
「……」
「むしろあんたの役に立てるからよ」
「……」
――次のこいつの発言で、僕の西暦千九百九十九年は――
「俺はあんたがやったゲームと同じ力をあんたに与えてやるから」
――笑えなくなった。
「……はぁ?」
今なんて言った?
意味が分からない。いや分からないのは今に始まったことではないが……何を言っているんだこいつは?
……いや、考えるだけ、理解しようとするだけ無駄だ。
僕はきっと狂っている。
ごそごそと『何か』が枕元に上る音がした。
「まあ、百聞は一見に如かずっつーしな」
見ない。絶対見ないぞ。
「取り敢えず、これでもやってみ。俺は引っ込んでっから」
その言葉を最後に、『何か』の気配が消えたような気がした。
……引っ込んでるから?
……え?居なくなったのか?
少し枕から顔を上げそうになる。
いや、待て。もしまだ居て見てしまったら終わりだ。
まるで一目見たら死んでしまうような恐れ方だなと自分でも少しだけ思ったが、すぐに大して変わらないと思い直す。
一目見たら、ほぼ確実に自分の日常と常識が死んでしまう。
暫く待ってみる。
………………………。
……まさか、本当に消えたのか?
更に待つ。
………………………。
――居ないのか?
本当に。
「……」
唾を飲んだ。
……。
顔を上げるなら今しかないかもしれない。
何度も躊躇い、今日で何度目かの覚悟を決める。
「……!」
上げた。
ゲームボーイが目の前に転がっていた。
ごく普通に。
暫く呆然とそれを見つめる。
(……夢……ってことは、もうない……よなあ……)
この期に及んでもまだ信じたくなかった。
さっきの会話が頭を回る。
――取り敢えず、これでもやってみ。俺は引っ込んでっから――
手に取ってみる。
カセットがささっていた。
(これは……)
相当初期のカセットだ。何年も前にクリアした覚えがある。微妙に色がくすんでいるのがその年季を感じさせる。
内容といえば、ただジャンプで敵をかわしながら進んでいくだけという非常に単純なものだ。ただ、確か三回連続ジャンプとか空中加速とかぐらいは出来た気がする。
「……」
正直、普段なら今更こんな単純なゲームはやろうとすら思わない。
だが、今は状況が違う。
やる気の問題では無い。
半分夢の中のような気持ちで、電源を入れた。
当然、通常通り起動する。
「……」
呆然としたまま進め、その内に1面をクリアした。
頭の中の微かに理性を保っている部分が、よくこんな久しぶりのゲームを普通にクリアできたな、とどうでもいいことを考える。
やるだけなら1面でいいだろう。
そう思って、電源を消した。
と同時に、顔が映った。
「よし、オッケー。分かった。」
一人で何を納得してるんだかさっぱり分からない。分かったって何がだよ。
それにしてもなんていい加減な目だろう。線が三本あれば片目が書けるじゃないか。
またどうでもいいことを考えてるなあ、と思った後に、
あ、
見ちゃったよ。
「……駄目だもう」
自然と口からこぼれた。
「あ?何だ、そんなに疲れたのか?まあ古そうだったしな、この……えーと……カセットか、これ。久しぶりみたいだし。ゲームって神経使うんだな」
そっちじゃないよ。
っていうか、こんなんで疲れてたらテレビゲーム出来ないよ。
そう思っても口には出さない。
出す気力が無い。
「さて、じゃあコピー開始だ」
いいよもう。
どうにでもしてくれ。
そう思った途端、
ゲームボーイが、?んでいた手の中に吸収されていった。
「……」
すぐには状況を把握出来なかった。
そして、目の前で起きた異常事態に気付き、
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!?」
今度こそ本気で叫んだ。
予想外だとかそんなレベルの話では無かった。
何が起きたのか理解しきる頃には、ゲームボーイは完璧に消えていた。
『新の手の中』に。
「わ、な、な、あ、うあうわ」
混乱していた。
(どうだ?)
「!?え!?」
(だから、どうだって。身体に何か変化無いか?)
頭の中。
頭の中から声がする。
「な、ない!」
すばやく自分の身体を見て答えたその直後に思う。
何を真面目に答えてるんだ。
狂った。
僕は絶対狂った。
違うとしたら、僕は間違いなく発狂する。
狂わないと狂ってしまう。
混乱を通り越して、まともな思考が消えかかっていた。
(そうか。うん。よし。じゃ、ちょっとジャンプしてみ)
「あ、あ、ああう」
まともな思考が消えかかっていたそのせいで、殆ど言われたまま動いていた。
立ち上がり、跳んだ。
飛んだ。
跳んだつもりが、飛んだ。
普通ではありえない速度で、身体が飛び上がった。
人間には不可能な勢いで、身体が浮き上がった。
ジャンプの力が異常な程強化されていた。
(……!!)
『ジャンプ力』。
それは、まさについさっきの、
(……っこれ、まさか)
どごん。
新の復活しかかった思考はそこで止まった。
派手な音と共に新の身体が床に落ちる。
木の天井に、少しだけ新の頭型の窪みが出来ていた。
新は頭のてっぺんを押さえて悶絶している。
「……っ……ッッ……!!」
とんでもなく痛かった。
天井が凹むほど激しく頭突きするなんて、例えどんな長身であろうとも中学生には生まれて初めてに決まってる。ましてや新の身長は平均よりやや高い程度だ。
目に涙が溜まる。
(おう、悪い!外に出ろっちゅーの忘れてた)
頭の中で人事のような軽い声が響く。
「……お、遅いよ……」
新が涙声で呻いていると、一階から怒鳴り声が聞こえた。
「ちょっと新!うるさいよさっきから!」
「……」
うるさいって……。
確かにそうかもしれないけど……。
突然、右手からゲームボーイが生えてきた。
痛みで何も言えない。
完全に分離したゲームボーイは、新の前に立って、こう言った。
ぬけぬけと、こっちの気持ちも考えずに、こう言い放った。
「どうだ。夢じゃないだろ」
……。
ああ、そうだね。
本当にそうだよ。
だって、物凄く痛いし。
一階から、再び母の声が響いた。
「どうせゲームやってんでしょ!はしゃいでないでもっと静かにやりなさい!」
……。
……ゲームか。
無理だよ、母さん。
だって、
もう、
僕は。
目の前で、かつてただのゲームボーイだった物体が目だけで笑った。
「……」
僕は、非日常に、完璧に足を踏み入れたんだ。