宇受賣屋偶吟録〜『木洩れ日の隠れ家、陽炎の夢』 SiRaNuI作
薫風 若葉の合間を抜け
春眠 人の意識を揺らぐ
淡い霞が差す合間に、その道はある。
緑色の木々の作る自然のトンネルは、ただひたすらに木洩れ日を誘う。
舗装されていない砂利道と、微かに聞こえる小鳥のさえずりは、和やかな風と相成って、静かでいて、楽しげな、そして安らげる空気を生む。
その、人っ子一人居ない道を進む。
後戻りするのもいいだろう。
この道は強制しない。
誰のことも追おうとは思わないし、誰のことも拒まない。
何時歩けばいいのか分からない。
すぐに着くこともあれば、永遠とも思える時間がかかる事もある。
まずは入り口を見つけることだ。
その場所は決まってはいない。
昨日の場所は、決して明日の場所とは限らない。
一時しかそこにはないかもしれないし、暫くの間そこにあり続けるかもしれない。
ただ、その入り口を見つけたとしても、そこに足を踏み入れるかどうかは自由だ。
さあ、出口が見えてきた。
朽木にかかる一枚の看板が目印だ。
看板に刻まれた文字はたった四文字。
『宇受賣屋』
読めないのが普通。
そして屋≠ニ言う漢字から想像するに、おそらくこの先にあるのは「店」であろう。
緑のトンネルを抜けると、そこには一本の大きな藤の木。
大地からうねりながら生えるそれは、高貴な紫の花を垂らす。
その風景に溶け込む一軒の御茶屋。
それが『宇受賣屋』だ。
藤木のすぐ脇には平屋。暖かな色使いの土壁に、屋根には使い込まれた瓦が美しく並べられている。
そのさらに脇。ちょうど藤の花垂れるその中に、枝を支える細い棒に囲まれた、朱色の毛氈がかけられた長方形の腰掛が並ぶ。
その光景は、和という雰囲気を凝縮させたような空間。そして、不思議と異世界のような雰囲気を漂わせる日常から逸脱した空間。
ここまできたら、店に近づいてみるのがいいだろう。
この店は、誰も拒む事はないのだから。
正面の入り口。掛かる藍色の暖簾を腕押して、中に踏み込む。
「いらっしゃいませ。」
店の中には、地面からせり上がったような小さな八畳ほどの座敷があり、奥には襖。中心には囲炉裏。天井から囲炉裏に向って吊るされる蛭釘と、鮎を模した自在に吊るされる鎖の先には、鈍色の釣釜が火にかけられている。土間には竈と水の溜まった甕。棚には数々の甘味の材料となる食材が並び、台所がある。
土間の地面を横に滑れば、赤敷きの藤の下へと出られる。
そこに立つ一人の和服の女性。
淡い色の裾は、女性の華奢な身体を彩る。
髪を結い、後ろでまとめて垂らしているも、その長さは肩を超え背中に掛かる。小さな丸い鼻掛け眼鏡は、唇を染める優しい朱とよく似合う。憂いを含む美しい瞳は、優しくもあり、鋭くもある。見た目は二十代中ごろちょっとすぎたくらいだろうが、その雰囲気は老人。いやむしろ、もう何百年と生きているかのような雰囲気だ。そう、例えるならば「和服の魔女」であろう。
「何になさいますか?」
女性にしては少し低めの声だろうか。しかしその澄んだ声は、何者にも比べて美しい。
「今日はとても心地の良い小春日和です。外でお食べになるのがいいですね。どうぞ、藤の花でも愛でていてください。すぐお茶をお持ちいたしますよ。」
女性は微笑むと、座敷に上がり、囲炉裏にかけられる釣釜をはずす。
外に出てみよう。
刹那。視界は高貴な紫と、鮮やかな朱に満たされる。
急ぐのは勿体無い。
今は、この瞬間を楽しむのが賢いだろう。
肌に触る毛氈は、何と心地のいいことか。
微かに散る藤の花びらは、春の日に照らされて、内包する細い水の通り道すら映し出す。
「綺麗でしょう。この藤は『又藤』と呼ばれていましてね。一年中花を咲かせて、枝だけになる事がないんです。だから『不死の藤』で又≠ニ言う漢字を当てるんですよ。」
現れた女性が、湯気の上がる御茶碗と、桃・緑・黄の串団子を二本、お盆に載せて運んできた。
「そんなお立ちになってないで、ゆっくり腰掛けてください。」
お盆を置くと、女性も毛氈の上に腰掛ける。
「こちらは初めてですか?じゃあ、あの藤の謂れでもお話しますよ。」
心地のいい時間が過ぎる。
春をここまで満喫したのは久しぶりだろう。
きっと、これからここを訪れる事はもうないだろう。
きっと、また別のモノをこの店と、この女性は迎え入れていくのだろう。
そう思うと少し嫉妬してしまう。
日が傾く。
太陽が大きくなっていく、に連れてその光は衰えていく。
夕日に照らされる藤もまた美しい。
紫と赤がここまでに合う店はそうはないだろう。
ああ、まるで幻を見ているようだ。
そうかこれは幻か。
でなければ、さしずめ場違いな蜃気楼だろうか。それとも………
「この店の名前ですか?……ああ、そうですね。初めての方では読めませんよね。ここの名前は―――」
陽炎の見る、さらに朧げな夢だろう。
「宇受賣≠ニ書いて、ウズメ≠ニ読むんですよ。」
陽炎は 感謝だけ残して消えていった。
*
「あれ?お客さんっスか?」
藍の前掛けを身につけた青年が、店から顔を出した。歳は十代後半といった具合で、無造作に仕立て上げられた短い髪は、右目に掛かる一箇所だけ赤みがかっている。
「ええ、そうよ。」
女性は静かに立ち上がる。
「?もう帰られたんスか?」
「いいえ。まだ居るわ。」
青年が辺りを見回す。
「…………どこにです?」
疑問の声。
女性は微笑む。
「ここよ。」
見下ろした先には、すっかり冷めたお茶と、口の付けられていない団子。よく見れば、お茶も減っていないようだ。
それを見た青年は、「ああ」と納得の声。
「あら?もうお帰りになるんですか?」
唐突に上げられた女性の声に、何も反応しない。
そこには、女性と青年以外の人の姿はなく。ただ、赤い夕日の残り火と、藤の花が揺れるばかりだ。
「また、いらしてくださいね。」
一陣の風が吹く。
その風は枝を揺らし、女性の長い黒髪を通り抜けて、藤の紫を駆け巡る。
二人は軽く空を仰ぐ。
風は店を抜け、木々を抜け、空へと昇っていく。
紫の雪と見間違うかのような光景。
散る花びらは、風の後を追って無秩序に朱の毛氈に舞い落ちる。
ふと見れば、お盆の上には、空の茶碗と二本の串の乗った皿だけが残されていた。
それを見て女性は微笑む。
「夜義君。あと、片付けておいてね。」
「たまには、京子さんがやってくださいよ。」
「何言ってるの。私はあなたの雇い主よ?従業員は黙って職務を全うする。」
「了解………」
青年は、お盆を持って店の中に消える。
女性は、藤の下に立ち続ける。
そして、誰に言うでもなく、口を開く。
「ありがとうございました。」
花びらが舞う。
美しい紫は、夕日に染まって穏やかに微笑んだ。
《 了 》