宇受賣屋偶吟録〜『夏の小道、君去りし後』 麻生 夢幻作
気付くモノが立ち寄る、ふとした合間の道の先
砂利敷きの緑の木々のトンネルを抜け、藤の朽木の側に建つ和風茶屋『宇受賣屋』。
一匹の猫が堂々と暖簾をくぐる。
その猫は普通じゃなかった。その猫は尻尾を二本持っていた。
強いて言えばこの時、猫はもう猫ではなかった。
其処に立っていたのは二十代前半の、色素の薄い猫っ毛の女性だった。
「おぉい、夜義くぅん!おきゃくだよぉ!」
彼女は甘ったるい声でこの店の従業員―夜義 修静を呼んだ。
彼女は『宇受賣屋』の常連だ。従業員と、現店長とは既にタメの関係である。
「はいはい、いらっさ・・って紗叉姫さんじゃあないッスか。」
「ほぉら、常連さんだからってぇ、礼儀を忘れちゃダメでしょう?」
そう言って 紗叉姫と呼ばれた女―と言っても猫又だが―は夜義の頬をにこやかに引っ張る。夜義は泣きそうだ。
「すぴまへん、は、離し・・ふぅ、痛いッスよ、もぅ。こう見えてオレ、凹んでるんスから・・。」
そう言いながら、夜義は頬をさする。流石猫又と言ったところか、真っ赤な頬には爪の跡がくっきりと残っていた。
そして夜義は茶を入れながら、一人ごちる。
「ああ、今回のコはタイプだったし、青春の到来かな、って思っていたのに・・」
「にゃははは、残念だったねぇ。大丈夫よ、困ったらサキちゃんが面倒みてあげるから。」
そう言って気楽そうに笑う紗叉姫。
「いやぁ、流石に齢三百の大姐ごぶひゃあぁぁぁっっ」
夜義の頭上に紗叉姫の右踵が直撃する。重力に逆らわず、夜義の顔面は熱した釣釜に吸い込まれていった。
「まだまだ二九八じゃい!!」
紗叉姫が夜義の死体(暫定だが)に向かって吐き捨てると、藍色の暖簾がふぁさ、と揺れる。店主、京子が戻ってきたのだ。
「あら、お客さんね。・・って紗叉姫さんこんにちは。」
「んふふ、お邪魔してるわよ?」
「ほら、夜義君、そんなところで寝てないでさっさとお茶の準備をしなさいな。」
夜義は返事代わりに右手をびくん、と痙攣させる。再起は無理そうだ。
「しかたないわね。」と京子は夜義を放り捨て、茶碗一式を用意して、しゃかしゃかと小気味良いリズムで手を動かし始めた。
「そう言えば紗叉姫さん、今日はどう要った用事で此方へ?」
京子はふと紗叉姫に訪ねる。それでも手の動きは乱れないのはかなりの熟達をしているからだろう。
「んふ、大したことじゃあないわ。夜義君がね、また「生の彼女が欲しいッスよ、青春したいっすよぉ!」って始まっちゃって。でも彼店番だし、京子も居ない。っちゅうワケでぇヒマだから、外界の女の子を連れてきたのよ。」
そう言って、にゃはははと笑う紗叉姫。
それを聞いて京子は「ふふ、そんなモンね。」と笑うと、機械的なまでに正確だった手をぴた、と止め、茶碗を紗叉姫に差し出した。
「にゃは、いい薫りねぇ・・では、いただきます。」
茶と鮮やかな藤花を嗜んでいると、京子はふと尋ねた。
「・・ねぇ。紗叉姫さん、いつも気になっていたんですけど、貴女はどうしていつもそんなことばかりしているのかしら?」
紗叉姫は「困ったわ」と言うような曖昧な表情をして、
「ん〜、そうねぇ。愉しいからって事もあるけど、私くらい長く生きていると、もう自分の色恋になんて、本気になれなくてね。燃えないじぶんのコトよりも、他人のコトの方が、心配になってくるの。擬似的に、私も同じ気分になれるし。
それに、生きているだけじゃ、満足できないし、どうせなら誰かの役に立ちたいわ。」
と答えた。その響きは「雌猫」のモノではなく、「永きを生きた猫又」の其れになっていた。
京子は優しく微笑みながら頷くと、空いた陶器を奥の洗い場へ運んでいった。
藤の花吹雪の中、紗叉姫は元の姿に戻り藤を眺めていた。
(私は時に生命の環から外れてしまった自分を呪うことがある。私はほんとうに在るの?
永久に生きるのは辛い。かといって終焉たる死も怖い・・
永久に咲く貴方は、どんな思いでこの日々を過ごしているの・・?)
藤の朽木は何も答えず、小さな猫又を元気づけるかのように、頭の上に小さな華を、ぽんと落とした。
猫又はな〜〜ごと鳴き、木漏れ日のトンネルを歩きだした。
二股のかぎしっぽが震え、さくりさくりと砂利道を歩く音だけが響いた。
《了》