宇受賣屋偶吟録〜『夏の小道、猫追う者』 麻生 夢幻作
緑風 濃緑の木々を揺らし
盛夏 人の心を揺らす
蝉騒ぐ林道のはずれに、その道はある。
じーわじわじわじわ・・・・蝉が風情から公害へ移りゆく昼下がりのこと。
私は走っていた。夏期課外授業の帰り道、人口だけで昇格したような市街の外れを、ヒビの入ったままのアスファルトの道路を、息を弾ませ、一心不乱に・・
はっ、はっ、はっ、はっ・・・・
呼吸に合わせて華奢な身体が跳ねる。濃紺の肩鞄が鬱陶しい。
はっ、はっ、はっ、はっ・・・・
足を前に振り出す度に、後ろで編んだ三つ編みが跳ねる。
はっ、はっ、はっ、はっ・・・・
だんだん息が苦しくなる。それでも目の前の猫は止まらない。
時折私を振り返り、距離を確かめ、また走る。
疲れてきているのだろうか、それとも私を何処かに連れてこうと言うのだろうか。
(ぜ、前者だった、ら、かなり嬉しいんだ、けど・・)
呼吸のペースがおかしくなってくる。息苦しくてふと視界を逸らした瞬間、猫はさっと林道に入ってしまった。
二股(・・)の(・)かぎ(・・)しっぽ(・・・)を、ゆら、とはためかせて・・
其処はまさに別世界だった。
足下には鈍色の砂利の絨毯が広がり、上を見上げれば夏の精気に満ちた濃緑の天蓋と、木漏れ日のシャンデリア、爽やかな風は蝉の声を何処からかそっと包み、暴力的な響きを甘美な旋律へ変え、そっと奏でている。
(こんな道、どうして気付かなかったのかしら・・)
私は猫のことなどすっかり忘れ、この道の景色を一歩一歩味わった。
蝉の声はもう、聴こえてこなかった。
さく、さく、砂利を踏みしめる音だけが、木漏れ日のトンネルに響く。
私はすっかり魅入ってしまっていた。どれぐらい歩いただろう。ほんの少しのようでもあり、かなり歩いたような気もする。
(そろそろ、疲れてきたわね・・)
そう思う頃、まるで狙い澄ましたかのようにトンネルが途切れる。
そこには見事なまでの紫の花をつけた大きな大きな藤の朽木と、御世辞にも大きいとは言えないような平屋、そして
(う・・うじゅばいや?)
『宇受賣屋』と書かれた一枚の看板がぶら下がっていた。
( “屋”って事は、お店屋さんよね、一体なに売ってるんだろう?)
興味をそそられた私は、藍色の暖簾をそっとくぐった。
「わぁ・・」
私は思わず溜息を漏らした。
店内は、地面からせり上がった小さな八畳の座敷、奥には襖、中心には囲炉裏があり、天井から蛭釘がぶら下がり、鮎の形をした鎖の先には狸になりそうな釣り釜が火に掛けられている。土間には籠と水の張った瓶、棚には色とりどりの食材が甘い薫りを店内に漂わせている。
「なんというか、日本昔話、って感じね・・」
私は何となく呟くと、店の外―藤棚の方から若い男の声で
「お、いらっさ〜い。」
と声が掛かる。私は誰も居ない者だと思っていたので、かなりビビってしまった。
ばたばたと出てきたのは藍色の前掛けをつけた青年だった。身長は一七五いくかどうか、歳は二十ちょっと前くらいで無造作に仕立て上げた髪の右目に掛かる部分を赤く染めているのが印象的だった。
「お、彼女、初顔ッスね。外で『又藤』を観ながら、毛氈に腰掛けてってのがお奨めッスよ?」
敬語なんだかそうでないんだか、よく分からない言葉遣いで男は語る。
「じゃ、じゃあそこで・・」
私は断る理由もないので、その提案を受けることにした。
了解、と男は笑顔で答えると、掛けてあった釣釜を持ち、私を案内した。
障子張りの襖をさっと開くと、其処には‘美’が存在した。
息を呑む光景、と言うモノとはこういうモノだろうか?
先ず美しい紫に目を奪われた。燦然(さんぜん)と咲き誇る華達は視界を埋めつくさんとするように鮮やかな花弁を見せつけ、時折散る花びらは背景の緑と混じる度、儚い艶を見せる。
次いで視線を周りに移す。彩やかな朱の毛氈が一、二、三脚。その脇には青みの残る鹿威しが思い出したかのようにかこん、かこんと頭を垂れている。
其処には現代が忘れた、和があり、雅が在った。
(外国人の夢見る庭園って、こんな感じかしら?)
私がぼうっと魅入っていると、後ろの方から
「どうっすか?いいもんでしょ。」
そう言って男がお茶と善哉(ぜんざい)を持って現れた。私はまた突然の出現に驚いた、かなり。
(こいつ・・もっと親切な登場はできないの!?)
私が暴れる心臓を撫でていると、彼はそっと隣に立ち語り出す。
「綺麗でしょ、『又藤』言うんスよ、これ。一年中花を咲かせて、枝だけにはならないんす。っちゅうワケで『不死の藤』から‘又’と言う文字をつけられてるんス。」
「へぇ・・ロマンティックじゃない。」
私はほう、と息をつくと男は笑顔で「ごゆっくりぃ」とだけ残し、品物を置いた盆を置いて店の中へ戻ってしまった。
私は毛氈の上に腰を下ろそうとしたその時、
「あ、かーのじょォ!こっちおいでよぉ」
と、隠れていた四つ目の毛氈から遊び臭そうな女性の声が掛かった。
「わ、私ですか?」
私は盆を持って声の方へ向かう。
其処には二十前半くらいの女性がみたらし団子を頬張っていた。
黒いワンピースの下に白い服とタイトなブーツカットのジーンズを着て、茶の混じった柔らかそうな毛質の髪をふわっと浮かせ、ほっそりとした顔に見た目に不釣り合いな団栗眼が浮かんでいた。
もちろんの事ながら彼女との面識はゼロ。少しばかり肩に力が入ってしまう。
「んふふ、そう硬くならないでよ。妖しい、てワケじゃあないんだから。他のお客がいるのも珍しいし、少しお話ししましょうよぉ。」
そして彼女は、にゃははは、と気持ちよさそうに笑う。酔ってるのだろうか?
別に断る訳でもない、私は「構いませんよ。」と答えた。
「んふふふ、アタシは紗(さ)叉(き)って言うのよ。サキちゃんって呼んでねぇ。にゃははは」
「わ、私は楡崎(にれざき) 優(ゆ)衣(い)って言います。・・どうも。」
私は取り敢えずの返答だけすると、サキは「ユイちゃん・・ふふふ。」と妖しげに笑った。
「ねぇユイちゃん、貴女ってさぁ、可愛いけどカレシとかいないのぉ?」
「んな!?何をいきなり訊くンですかぁ!」
私は不意を突かれて真っ赤になる。大声の所為か、藤の枝が驚いたように揺れ、紫の欠片がぱっと舞い散った。
「ん〜ふふ、だってぇ気になるじゃないのよぉ。女の子同士の会話なんて、ピンクの色恋沙汰が基本じゃなぁい?」
「だからと言って、いきなり初対面の人に訊きますかぁ!?」
「んふふ、いいじゃない。それにムキになるところが、あ、や、し、い。」
そう言ってサキは大きな目を此方に向けてくる。
その目を見ると、なんだか、嘘がつけなくなってしまう。
「その・・気になるコなら・・居るんです。」
私はその視線に観念して本当のことを言ってしまった。
後から後悔の念がじわじわくる。
しかしサキはじっと見ていた目を細め、興味を失ってしまったように
「あら、そうなの・・」
とだけ呟いただけだった。
(ま、赤の他人だったら仕方もないわね。)
「じゃあさ、ユイちゃんちってさ、猫飼ってる?しかも、雄猫。」
「ん〜家はアパートなんで、ペットはちょっと・・」
サキは心底がっかりしたようで、「アタシ、ちょっとトイレ・・」とだけ言って店の中へ入ってしまった。
毛氈と、食べかけの善哉と、私だけが静かに其処に残った。
善哉は甘さを控えてあるのか、さっぱりとした味で、くどくない上品な味だった。
私が善哉を食べ終わってもサキは戻らなかった。
私は待つのがイヤになって、従業員の青年に勘定を頼んだ。
青年はにこやかに笑顔を絶やさず、あの善哉のように後味が良かった。
代金を払い終え、藍色の暖簾をくぐる。
すると何処からか「にゃ〜〜ぉ」と言う甘ったるい猫の鳴き声が聞こえた。
私は辺りを見回すと、藤の朽木の上に、あの二股のかぎしっぽを見つけた。
(すっかり忘れてたけど、私はアイツを追っかけてたんだっけ。)
猫は大きな瞳で私の顔をじっと見つめると、笑ったように目を細めて、したたたっ、と枝から駆け下り、先刻歩いた砂利道を走り始めた。
私は「追いかけなきゃ」という圧迫感に囚われ、その二股のかぎしっぽを追いかけた。
――それ程は走っていなかったと思う。
気付けば私はひび割れアスファルトの道路に出ていた。
あの猫はもう何処かへ行ってしまっていて、周りをよく確かめれば、私の家の近所まで来ていた。
(彼処は、あの猫は一体何だったんだろう・・?)
私は一人、道の中央で思った。
答えは出ない。それでいいんだと思う。
私はそう思い直し、日の暮れかけた道を一人歩いていった。
――その後も私はあの道も、不思議な猫も、鮮やかな藤の華にも出会う事はなかった。
あれが夢幻だったとは思えないが、あの世界は、なんかリアリティーに欠けていて、不思議な感じがしたのもまた事実だった。
それでも私は藤を観る度に思い出す。
あの茶屋の、幻想的なひとときを・・・・
《了》