宇受賣屋偶吟録 〜『暮れ果ての春、夜義日和』
春風 新緑の息吹をたなびかせ
五月病 人の心を揺らす
明け暮れる五月の片隅に、その道はある。
なにこのシチュエーション・・紗叉姫は目の前に広がる惨状を見て思った。
乱雑に散らばる藤の花片、引き裂かれた紅の毛氈、中程からぶつ切りされた腰掛け・・
そして目の前には鎧兜の男が、両の手で引きちぎられた毛氈を構え、焦点の合わない目でこちらを睨んでいる。
おおよそ現代の和風茶屋ではお目にかかれない光景。しかしその異常は確かに目の前に広がっていて、彼女を脅かしているのだった。
時を遡ること少々。
何の変哲もない皐月の中頃、昼下がり、猫の化生、紗叉姫は何とは無しに店にやってきた。それは小腹が減ったからかも知れないし、今月になってまだ顔を出していなかったからかも知れないが、取り敢えずヒマだったから・・と言うのが妥当な理由だろう。
彼女は藤の下で、溜息混じりに延々と終わりのない掃き掃除に従事している青年に声を掛けた。
「ちゅいっす、夜ぉ〜義君。」
「ああ、紗叉姫さんじゃねえッスかぁ。」
夜義、と呼ばれた青年は覇気があるのかないのかが非常に曖昧なトーンで挨拶を返した。 顔は倦怠でじめじめとした表情が浮かび、胞子を蒔けばコケだらけになりそうだ。
此処は和風茶屋『宇受賣屋』。永久に咲く不死の藤、『又藤』を囲った、知る人ぞ知る、ごく普通の、いや少々入り口の見つかりづらい小さな茶屋である。
店員は妙齢の美人店主である京子と、従業員の青年、夜義の二名。店長の京子は買い出しその他の理由で店を開けることが多く、大抵の小間使いは夜義がやっている。それに元々客の多い店ではないので、夜義一人でも充分なのだ。
今日も京子は外出。何やら材料の買い出しにでも行ったらしい。また一人店番の夜義の背中が哀愁を醸し出していた。
「あら、京子はまた居ないの?」
紗叉姫が少しつまらなそうに呟く。
「そうなんスよぉ、なんか最近日中が孤独で孤独で・・ハァ。」
「・・相変わらず鬱気味ねぇ。五月病かしら?」
五月病なら夜義は慢性的だろう。紗叉姫は苦笑した。
「そうかも知れねぇッスねぇ。あは、うふふふぇふぇ・・・」
・・どうやら重症のようだ。何処かイカレタような笑い声を上げながら夜義は箒に顎を載せ、だらーっ、ともたれかかった。
「・・取り敢えず、スルーってコトで。」
このまま見ているのも精神衛生上、あまりよろしくないと判断した紗叉姫は、夜義から三メートルほど離れた腰掛けに腰を下ろした。
(あ〜、何処へ行ってもヒマなもんねェ・・)
五月、と言う季節の為せる業だろうか?彼女の中にも少なからず鬱が宿っていた。
夜義を極力見ないように周りをぼんやりと見渡してみると、店の片隅においてあった、何やら見慣れないモノが目に飛び込んできた。
スイカ程度の大きさで、黒地をベースに頂点から中程にかけて放射線状のビー玉大の突起が並び、白銀色の鮮やかな刺繍をされた吹返と眉庇、そして三日月型の鍬形は左半分が欠けていた。
(・・何かしら、兜?)
紗叉姫は気になってそれに近づく。博物館などで見かけるようなモノよりやや小さいが、間違いなく鎧兜だった。
無論、紗叉姫はこんな物が置いてあるのは見た試しがないし、何より調度品としては滑稽なくらいにミスマッチだ。何より京子にこんな趣味があるとは思えなかった。
興味を持った彼女は、取り敢えず一日中店にいた夜義に聞くことにした。
「おぉーい、夜ぉ義君!これ何―?」
しかし、ゾンビーと見まごう形相で現れた夜義はそれを見て首をかしげた。
「・・何スかね、それ?店の中漁ってたら出てきたんスよ。」
「誰かの忘れ物かしらね?私は一度も観たこと無いわよ、そんなの。」
「オカシイッスねぇ・・、ここ数日、そんなゴツいモノ持つようなお客さんなんて来てないッスよ?」
夜義は「そこだけは間違いなく」と本日初めては気のある表情を見せながら言った。
「じゃあ、これは誰のモノかしら?」
「さぁ、春風かそこらの悪戯ッスよ、きっと。」
これは嫌がらせだろう・・と紗叉姫は思った、敢えて口には出さなかったが。
しかし、何はともあれ、紛れもない鎧兜である。若干小さくはあるが被れないサイズではない。女性、ましてや猫又である紗叉姫にとって兜を被る、と言う行為はまさに未知た。
(・・そもそも兜は頭に被ってなんぼのモノだし。此処で被らないのは兜の神様に失礼ってモノよね。)
「夜義君のじゃないなら、コレ、被ってみてもいいよね?」
「まぁ、問題はないッスけど・・」
「やった。」
言うが早いか黒光りする兜の縁を掴んで被る。
ずっしりとした厳かな重量。少々古いモノだからか、ごつごつとした感触を頭に感じた。
少々小振りに作られた厳つい兜はボーイッシュな紗叉姫によくマッチし、まるで生気盛んな若武者のようで、なかなかに様になっていた。
「わぁ、なんか強くなったみたい。どう?夜義君、カッコイイ?」
「おおっ、なんかいいッスよ。結構似合ってるッス。」
「でしょ、でしょ!う〜ん、前々から被ってみたかったのよね〜、コレ。」
「え〜と、前々からってコトは…戊辰戦争あたりッ・・」
「ていっ!!」
がつんっ!
紗叉姫は余計なことを言った夜義に頭突きをかました。速度に重量を加算された鋼鉄の一撃が夜義のおでこにクリーンヒットし、ぷしゃあっ、と鮮血が舞った。
「・・ッぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「人を年増みたいに言うな!!」
血をだらだら垂らしながら悶える夜義にそう吐き捨てると、痛そうに首をさすった。さっきの頭突きで首を痛めたようだ。
紗叉姫は名残惜しそうに兜を外した。いつもはふわっと浮いていた猫っ毛が、兜の重さで潰れて情けないことになっていた。
「や〜ん、髪直さなくちゃ……。」
ぽいっ、と兜を放り投げると、「鏡、鏡・・と」と紗叉姫は店の奥へ入っていった。
またもや転がったままの兜。
「・・いいッスね。」
夜義はぽつりと呟いた。
がっしゃあああん!
京子の部屋で髪を直していると、つんざくような破壊音がとどろいた。
「何!?何なの、わっつ、はっぷん!?」
いや、三回も同じコトを聞かなくても・・
「ぬうああぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁっぁぁ!!!」
「夜義君!?」
何かがヤバイ、紗叉姫は取り音のした方へ向かった。
「なんで、ないんすかね・・」
現場に着くと、そこには兜を被り、虚ろな目をした夜義と、半ば辺りで泣き別れになった腰掛けが無惨に転がっていた。
「なんで、ないんすかね・・。」
抑揚がからからに干上がった声。トーンは夜義のモノに間違いはないのだが、その声は暗く、やせ細っている印象さえ受けた。
「・・どしたの、夜義君?何か、悪いモノでも喰った?」
ジョーク混じりに問いかけるも、場の空気は和むことがない。
『異質』――それだけが宇受賣屋を支配していた。
「なんで!なんでないんスか!!」
突如として夜義が叫ぶ。
「だから何が無いのかッて聞いてンだけど・・」
「どうして泳いでないんスか!もう、もう半ばだってのに!畜生!もういらないってコトッスか!?」
一人叫く夜義、紗叉姫は何がなんだか分からず、ただただ唖然とするしかない。
「こうなりゃ、オレが泳ぐッスか!?びちびちーびちびちー!!」
意味の分からない効果音を叫びながら、『気を付け』の状態で寝転がり、身体をくねくねと発掘されたミミズのようにのたうち回らせる夜義。
「どうッスか!面白い!?面白そうに泳いでるッスか!?」
泳いでいる、と言うよりは悶絶してる、と言うのが適切だろう。
「・・いや、滑稽すぎでマジキモイよ。」
冷や汗をかきながらも冷静なツッコミを入れる紗叉姫。
「そ、そんなはハズはないッス!・・そうだ!オレ一人でやってるから絵にならないんスよ!!」
いや、集団でやっていても不気味だろう。神秘主義者か?
ふと、夜義の目に赤い毛氈が目にはいる。ニヤリ、そう微笑み、次いで紗叉姫へと視線が移る。紗叉姫はひやり、と冷たいモノを感じた。
「・・ちょっと夜義君、なんか変なこと考えてない・・?」
紗叉姫は不安で彼に問いかける。
「・・やっぱ『真』だけじゃあ、サマにならないッス。だから・・」
夜義は一人ぶつぶつ言うと、毛氈を掴み、ゆっくりと立ち上がる。
そして突然、カエルのような姿勢で紗叉姫に飛びかかった。
「うぉぉぉ!『緋』になれぇぇぇぇぇぇぇ!!」
咄嗟の出来事に紗叉姫の判断が一瞬翳る。しかし、流石猫又と言ったところだろうか、軽く、僅かなモーションと刹那の反射で夜義の突進を避け、彼との距離を取る。
「あっぶないじゃないの、夜義君!」
紗叉姫は怒鳴るが、夜義が危ないのは行動だけではなかった。
目には薄赤い光を湛え、息遣いもこひゅー、こひゅー、と正常なモノではない。
再び、夜義の身体が一瞬収縮した気がした。――バネを溜めている、紗叉姫はその狩猟動物のような行動を一瞬で感じ取った。
(・・・来るッ!)
一足。夜義の足下で鈍色が飛散し、二人の距離が、ぐん、と縮む。
と同時に紗叉姫も跳んだ。四肢がたわむように伸びるしなやかな跳躍、それは夜義を避けるのではなく、彼の頭上を越えるものだった。
「その原因が兜ならッ・・!」
交錯の瞬間、黒光りする頭上に手を伸ばす。
がし、しっかりとホールドした感触を感じる。そして跳躍の勢いを乗せたまま・・
「・・取れないい!?」
ぐき、と言う鈍い感触はしたが、その手に兜はない。夜義の頭には未だに兜が輝き、しかしその衝撃で首を伸ばしきった夜義が蒼い顔をしながら白目を剥いている。
顎下には兜の緒がしっかりと締められている。
「買っテ、兜の緒ヲ締めル・・」
ニヤリ、と勝ち誇ったように肩頬をつり上げる夜義、蒼い顔のまま。
「ちょーし乗って片言で喋ってからに、ゾンビかっつの・・」
再び距離を置き、紗叉姫は毒づいた。
――そして現在に至る。
夜義は顔を蒼くしたまま淡々と隙を伺い、紗叉姫も次の行動を決めあぐねていた。
(さて、どうしようかしら。緒を切ろうにも一歩間違えば夜義君の首捌いちゃうし・・)
「・・ま、それでもいいんだけどね。」
良くないと思う。
「・・しゃあない、アレ、やるか。疲れるんだけどなぁ‥‥」
紗叉姫は、はぁ、と気怠げに溜息を吐き、目を閉じる。
彼女の右手が、ぼう、と淡く光る。光は手から指、指から詰め先へと徐々に集約され、まるで光の爪のようになった。
「・・じゃあ、いくよ?」
紗叉姫の顔から気怠さが消え、気迫に鋭さが顕れる。それを合図に夜義へ向かって走り出した。それに合わせて夜義も走る。
「うぁぁぁぁ、『緋』ィィィィイイ!!」
「紗叉姫、四拾八の必殺技ぁぁ!」
あっと言う間の交錯。その瞬間、紗叉姫は超速の一振りを夜義に繰り出す。その光の軌道は夜義の横頬あたりに吸い込まれた。
「魔惹き薙ぎ!」
緊迫の一瞬にそぐわない、柔らかな風が一陣そよぐ。
しかしその風は兜の緒と、夜義の赤髪にだけまとわりつき、はらり・・兜の緒と夜義の赤髪が数本、静かに落ちる。
「・・ふフ、見事。」
先刻までのモノとは違うような落ち着いた口調でそう言うと、兜はそれが意志であるかのように、夜義の頭から落ちようとした。
「・・マテや、こら。」
「ナ・・!?」
紗叉姫はずり落ちようとする兜を夜義の頭に押さえつけて、夜義を睨み付ける。
「勝手に暴れて、勝手に諦めて消えんじゃねェわよ。いい、私は襲われたの。夜義君は乗っ取られて数多の暴行を加えられたわ!私たちには知る権利くらいあるんじゃないの?」
夜義を痛めつけたのはオマエだろうに。しかしそう言う紗叉姫の瞳は真摯だった。
「さぁ、話してご覧なさい?」
僅かな沈黙し、兜は片言から、落ち着きを見せた声で語り出した。
「・・確カに。申し遅れタガ、私は皐月『月行司』。謂わば五月を司る聖霊。季霊四神の下に就く者だ。私がこの役に就いたのは三期前。私は昔から、重厚な五月人形と、空を舞う鯉幟に憧憬の念を抱いていた・・。端午の節句、男児の立身出世をネガっての、古来からの風習・・その司をやれるのなら、と任を受けた時は心が躍ったものだ。」
懐古と、憂いで混濁した微笑。穏やかな夕暮れの表情。しかし、それも闇夜に変わっていくように、少しずつ蔭りを見せてくる。
「しかし、時代とは変わるモノだ・・。私の着任の際、空を泳ぐ鮮やかな鯉の群れは何処かへ消えていた。人々は家を捨て、異国へ旅立っていく者ばかりだ。・・それでも、私は信じていたのだ。来年はもっと鯉が泳ぐ、来年はもっと子どもたちが笑う・・と。
そうして三年の時日が経った。鯉の数は年々減り、端午の節句はただの休日に成り下がっていた。・・私は失望したよ。長年望み続けていた仕事が、こんなに廃れてしまっていてね。何故なのだ?たった、たった二五〇年ばかりのことなのに・・。」
夜義を介して伝わる悲痛。
「気付けば、私は任務を放棄し、このような兜に引き籠もってしまっていたよ。ともすれば暴発してしまうような、不安とやり切れなさを抱えてね。・・実に皮肉なモノだ。まさか、皐月の聖霊である私が『五月病』に罹ってしまうなんて。」
はは、と力なく笑う。その笑いには彼の抱える悲痛が垣間見えていた。
紗叉姫はその笑いを黙って聞いていた。
「はは、長々と語って申し訳ないな。でも、いいんだ。時代は変わってしまったんだ。期待などせずに、諦めてしまえば、容易いのだからな。
・・迷惑をかけた。この者には後に謝っておいてく・・!?」
「紗叉ちゃーん、ナックルっ。」
ボコッ!
黄金とは言い難いが(多分ゲルマニウムくらい)鋭い一撃。彼は避けることもできずに吹っ飛んだ。完全に不意打ちだったのだが。
「な、何をする!?」
「いや、ちょっと喝を入れようと思ってね。てかさァ、何事もあんまり簡単に諦めない方がいいと思うよ?諦めたら、もう何も見えなくなっちゃうもの。目に見えるだけじゃないモノとかがね。それに減ったってだけでなくなったワケじゃないんでしょう、鯉幟。だったら、その少数のために頑張りなよ。大衆正義とかのためにやってるワケじゃないんでしょ、例え少数でも泳いでるなら、報いてやりなって、ね。」
紗叉姫は一息に言うと、「ガラじゃないねぇ。」と照れ笑いを浮かべた。
「・・参った。貴女の言うとおりだな。ふふ、この歳にもなって、こんなコトを説教されるとは思わなかった。そもそも、コレは私が志願したことだったしな。・・ありがとう。何とか初心に立ち返れたようだ。」
初めて、彼は笑った。夜義の顔なのに、ソレとは異なる晴れやかな、そう『憑きモノが取れた』ような笑顔だった。
「ふふ〜、どういたしまして。」
つられて、紗叉姫も笑う。ようやく、宇受賣屋に晴れ間が覗いた。
「ああ、久々に暴れて愚痴を吐いたら気が晴れた。ありがとう。では。」
そう言うと、すぅ、と鎧の気魄が薄弱しようとする。
紗叉姫はそれに待ったを呼びかける。
「待ぁちなさいよ・・あんた何しに来たワケよ?」
上手い答えも見つからず、返答に躊躇していると、
「ここは絶品の御茶屋よ?何も飲まないでどうするのよ。」
紗叉姫はそう言うと、彼は「確かにそうだな。」と笑い混じりで答えた。
「では、その良い茶を馳走になるとしようか。」
すると、それに合わせたかのように、さく、さく、と銀砂を踏む音が響いた。
「あら・・お客様ですか?」
「・・お邪魔になっています。」
「そ〜よ〜。ねぇ、京子、早くお茶出してよ。」
「待っていて下さい、すぐお出ししますから。ちょっと遅いですけど、良い四方木と柏が取れたんですよ。」
京子は微笑を浮かべそう言うと、さっと暖簾をくぐっていってしまった。
彼はふと空を見上げる。
五月晴れの空は青く、どこまでも高く、水面のように澄んでいた。
「――頑張らなくてはな。」
呟きは風に舞い、空の彼方へ消えていった。
《了》