憂いの夕凪、白夜の狐 (前編)

   SiRaNuI


 
光 憂いを帯び
緑楼 果てなく続き
少年 帰巣の念をもって、一路足を進む



緑のトンネルを抜けると、そこには一本の大きな藤の木。
 大地からうねりながら生えるそれは、高貴な紫の花を垂らす。
 その風景に溶け込む一軒の御茶屋。
 
『宇受賣屋』

 藤木のすぐ脇の平屋。
暖かな色使いの土壁に、屋根には使い込まれた瓦が美しく並べられている。
 そのさらに脇。
ちょうど藤の花垂れるその中に、枝を支える細い棒に囲まれた、朱色の毛氈がかけられた長方形の腰掛が並ぶ。
 その光景は、和という雰囲気を凝縮させたような空間。そして、不思議と異世界のような雰囲気を漂わせる日常から逸脱した空間だ。

 その店主、京子は和服の似合う美女である。
畳の上で釈迦釈迦と御茶を立てる姿は実に絵になる。

釈迦釈迦……

薄暗い店内に、清い音だけが響く。

釈迦釈迦釈迦…………

一言も言葉を発せず、無心に御茶を立てる。傍らに置かれたお盆には、桜の型を彩った砂糖菓子が置かれている。その桜の造形の見事な事。本物と見間違うほどの薄紅色は、見るものを魅了する。

釈……………

不意に、京子が手を止めた。
細かい泡が静かに弾ける茶碗を見つめて、一切の動きを止めたのだ。
「夜義君。」
顔を動かすことなく声を立てると、それに呼応するように、店の外から青年が一人入ってきた。
「はい。何すか?」
藍の前掛けを身につけた青年の歳は十代後半といった具合で、無造作に仕立て上げられた短い髪は、右目に掛かる一箇所だけ赤みがかっている。
「来るわ。」
京子の声は妙に鋭い。
「はぁ。お客さんすか?」
それに比べて夜義の声は「どうした急に」と言った具合である。
「いいえ。」
京子は立ち上がる。御茶も菓子もそのまま放置して、土間で草履を履くと、暖簾を押して店の外へと出てきた。
突然の奇妙な行動はいつものことながら、夜義もそれに習って再び店の外に出た。
「妖刀の準備をしておきなさい。」
「朱≠フっすか?」
夜義は少し驚いた様子で、右目に掛かる赤い髪をつまんで弄る。
「厄介な奴が来るわ。」
その時の京子は、夜義のみとこともないような複雑な表情だった。



少年は緑の道を歩く。
生い茂る木々が清々しい緑のトンネルを作っているのだ。
陽光振る中、少年の髪は白髪である。
歳は十代前半。中学生と言ってもおかしくないほどの顔立ちである。
薄汚れた黒いジーンズの膝は破れていて、羽織るシャツは無地の白。所々に銀細工がめり込まれた服装は、若い世代の産物である。
その少年は、一人道を歩く。
ふと、一歩の楠が道を遮っている。
大きく道端からはみ出した根が、歩くべき道にめり込んで地面を変形させていた。
それを見て、少年は静かに息を漏らし言葉を紡ぐ。
「俺も嫌われたもんだ。」
そう言うと、ゆっくりと右手を前に差し出し、風を凪ぐように、すっと動かす。
瞬間。
地面が上下に震えたかと思うと、地面に張り巡らされていた根がビクビクと胎動をはじめ、まるで、巻尺を勢いよく戻すが如く、ギュルギュルと本体の楠に吸い込まれていった。
わずかな後、何事も無かったこのように地面が平らに変形された。
樹木の蠢動も止まり、ガサガサと枝を揺らぐ風の音が響く。
そして、ふわりと少年の目の前に落ちてくる黄色い紙片。
いや、それは紙片ではない。
一見して、黄色い紙の上に、なにやら複雑な字形が書き込まれているかのように見えるが、それは実は、花粉だ。
そういう形≠ノ整形された樹木の花粉が、紙のように折り重なっているのだ。
それが空気中に投げ出されて、儚くも、風によってその形が失われていった。
「こんな木偶ではどうにもならんだろうに。」
溜息をつく少年は再び歩き出す。
向う先に続くのは緑の回廊。
その行き着く先は、奇妙な御茶屋。

宇受賣屋だ。



「久しぶり。」
少年はにこやかに手を振った。
「もう死んだのだと思ってました。」
それに対して京子の態度は珍しいほどに悪い。
唐突とした白髪の少年の来訪。
予感していたように京子は抹茶と菓子の用意をして待っていた。
夜義は「やっぱお客さんじゃないっすか。」と言ってみたが、「違うわ。」としか京子は答えなかった。
実際、夜義もこの少年と会った瞬間、何か不可思議な感覚を感じたのだ。
まるでその少年は底抜け。
生きているのだか、死んでいるのだか。人間なのか、物の怪なのか。さっぱり分からない。
深く知ろうとするほど、逆にその底の見えない深淵の中に飲み込まれていくような。そんな感覚。
「調子はどうだ?」
赤い敷布の掛けられた又藤のふもと、一人の少年と、一人の美女が並んで御茶をすする。
「どうもこうもありません。貴方こそ探し物は見つかったのですか。」
京子の質問に少年はころころと笑うばかりで、まともに答えない。
「そうも簡単には見つからんもんさ。」
どうも、言葉遣いのおかしい少年。
「どういう言葉遣いをしてるのですか貴方は。」
京子もそこを指摘する。
「否(イヤ)なに。これでも普段はいたいけな少年よ。昔馴染みに会うとのう。どうも癖でな。帰郷した息子だとでも思うてくれ。」
「こんな奇怪な息子を持った覚えはありません。」
「奇怪なのはお互い様だろうに。」
揃って御茶をすすり、菓子を食む。
夜義は思った。
京子が店に来たお客と一緒に話をする事はあっても、茶の席を同じくする事など滅多にない。
この少年は一体何者なのか。
その疑問が夜義の中で渦を巻く。
「所で……」
少年が不意に、店の中から自分達の様子を伺っていた夜義に、視線を移す。
「又、新しい下男か?」
「そんな卑猥なものではありません。アルバイト君です。」
「ほう……」
目が合った。
その少年の瞳が須羽(すう)と細まる。
夜義は全身の毛が逆立つのを感じた。

『コイツはヤバイ。』

全身の感覚器が否応無しに脳味噌に警告する。
単(ひとえ)に、「危ない」とか「強い」とか、そういう感じではない。
何か、そんなものすらも感じさせない無心と言うか。
最初からそこには何も無いのに、あたかも在るように存在できる何か。
そんなつかみ所が無くも強烈な一種の存在感が、研ぎ澄まされたナイフの如く全神経を刺激する。
雨を降らせるのが分かっている黒い雲なら警戒できよう。だがこの存在は、比喩するなら、快晴の空の下、刹那の瞬間降り注ぐ無数の槍。その先にあるのは一瞬の悲劇と、一寸前の快晴の空。
この目の前の存在はそんな存在なのだと、夜義は瞬時に理解したのだ。
それと同時に、全身から汗が噴出す。
まるで金縛り。否、これはすでに時間の凍結というに相応しい。
その空虚にして極限の瞳の奥で、あらゆる原子は運動を停止しているのだ。

「呪憑き……か、いや、もっと高尚な何かか……」
そんな事を言いながら、少年は夜義の事をジロジロと注視する。
夜義も、合った視線をはずす事ができない。
「神朱の類か。どちらにせよ、実に興味深いのう………」
すっと、少年が立ち上がる。
瞬間。夜義の全神経は、彼の体を店の外へと走らせた。
コンマ一秒。夜義の体は又藤から離れた庭≠ノ踊りでる。
それは野性的な何かがそうさせたのだ。一気に緊張の高まった夜義は、全身警戒態勢をとる。
「良い反応だ。」
少年の目は確かに夜義の体を追っていた。ゆっくりとした動作で、少年は垂れ枝の下を歩きながら、夜義の方へと体を向ける。
「お止しなさい。店が壊れます。」
落ち着いた様子だが、どうも声の曇る京子。
「気にするな。」
少年は京子には目もくれずに言う。
「気にします。」
「藤は傷つけん。」
「当たり前です。」
「店も壊さん。」
「無理です。」
「大丈夫だと言っとるだろうが。」
「貴方は確実に店を壊します。」
「責任もって直す。」
「嫌です。」
「もう遅い。」
会話の途中。少年の最後の一言が聞こえたのは、ひたすらに京子から離れた距離。
そこは夜義の目の前で、その言葉を発している口は夜義の前方一米。
その口の上方に輝く両眼は金色の色を放ち、ほっそりと

笑う。



反応は光速。
赤い前髪に掛けた右手は、一振りの刀を抜き出す。
峰打つ余裕など無かった。
抜き座間に少年を狙う。
疾風の如く迫る少年。
狙うは左肩。
振った刀身は鋭く空気を裂きながら少年の肩に振り落とされた。
刹那。少年の左足が地面を殴る。
刀とほぼ平行運動をしながら、少年の体は、夜義からみて左へ大きく弾かれる。
刀は空振り。
紙一重で接触を免れた少年は、蹴りの勢いに任せて大きく夜義から距離をとる。
着地。地面を殺ぎ(そ)、少年は止まる。
その距離約十米。
低い体勢を保ち、少年は夜義を凝視する。
このうちに、夜義も体勢を立て直す。右足を軽く引き、刀を中央に構え、刀身を落とす。
「良哉。人にしておくには勿体無い逸材だのう。」
間髪いれず、少年は走る。
何度見ても、ぞっとするような速さ。
実は目で追うのがやっとだ。
しかも、今度は直線ではない。
右へ左へ。不規則に跳躍しながら高速で移動する。
時に後ろへ、そうかと思えば左へ。いや今の瞬簡には右背を取られている。
それを可能にするのは、人智を超えた脚力に他ならない。
跳躍のたびに、バシンというけたたましい音が響く。
徐々に距離が詰まる。
夜義は眼球運動をフル活動させてその姿を追う。
右か左か。
前か後ろか。
如何(いか)に高速といえども、仕掛けてくるのは一方向。
今、全神経は眼球を動かすために電磁を伝導する。

遂にその時。
狙われるは左方。
少年の右手が飛んでくる。白いその塊は、白い煙に紛うほどの希薄さ。其れも光速であるが故、成せる業(わざ)か。
夜義は手首を左に捻り、刀身を少年の拳に当てる。
接触。
ガキン
と、空拳が止まる。
物凄い腕力だ。一見して頑強には見えない少年の腕力とは到底思えない。
寧ろ、夜義は、あわよくば少年の拳を切り裂こうとまで思っていた。故に向けたのは腹にあらず、刃を直に拳にかち合わせた。が、それを止めるのは、右人差し指と中指だ。
少年の指は、がっしりと刀身を受け止め、刃と拳の接触を防いでいた。
「ほう。いい反応だのう。加えて手首の抜き方といい、力の掛け具合といい、実に結構だ。」
左拳による連撃。
一発目は左肩。ニ発目は左脇腹。ここで夜義ははじめて反応する。「雄ォォォ!!」と叫びながら、少年ごと拳を大振りに振る。
斬撃は空振り、少年は再び後ろに跳躍する。
いつまでも責められるばかりでは性に合わない。
いつもならば「お客様に手を上げるな」と叱る京子も、なぜか今回はは何も言わず、据わった目でこちらを見ているだけだ。少々その目に怒印が浮かんでいるが、今は目の前の事だけに集中しよう。
少年の着地の直前。夜義は駆け出す。
こちらの速度も負けてはいない。
俊足で一直線。小細工無しの一発勝負。
右肩に背負うように据えた刀を、少年との激突の瞬間、一気に振り下ろした。

―――斬

と、確かな手ごたえ。
だが、斜線の如く歪む世界のそれをよく見る。
斬ったモノは確かにあった。
だがそれは少年にあらず。
白い、折鶴。
形は変形し、真っ二つに切られてはいるが、それは確かに折鶴だった。
静止。
瞬間、その折鶴は京子が放った物と認識する。
見れば、遠く藤の下に立つ京子の右腕は前に突き出し、指は微かに上を向いていた。
「そこまでよ。」
久しぶりに京子の声を聞いた気がした。
「もう離してあげて。」
一瞬、一体何の事を言っているのか分からなかった。
が、一回瞬きをすると、全ての事態に理解が及んだ。
夜義の目の前の空間。確かにそこにいたのは少年だった。しかし、今あるのは真っ二つの折鶴の残骸だけだ。
少年は?
そう思った瞬間には答えは背後から響いた。
「少々乱暴だのう。」
その声は少年。
夜義は、斬撃瞬間後の体制で静止している。おそらくその少年も、その行動≠フ瞬間後で停止している。
彼がいるのは背後。
夜義の刀身とは全く逆側に彼は立っていたのだ。
しかも、その右腕は、確かに
夜義の首を後ろから掴もうとしていた。
その少年の掌と、夜義の首の間はわずかに拳半個分。
そして、少年の手には、夜義の首の変わりに京子の折鶴がぎっしりと握られていた。

ドッと。

心臓が一回大きく拍動したかと思うと、次の瞬間には、えも言えぬ戦慄が背筋を襲った。

「コイツはヤバイ」

夜義は、自らの本能が間違っていなかったことを確認した。



少年は身を引いて夜義に声をかける。
「楽しかったぞ。」
夜義は正直「冗談じゃない。」と思っていた。
未だに体を動かす事ができないでいる。
気付けば、いつの間にか京子も近くに寄ってきていた。
「本調子じゃないわね。」
「誰がだ。」
「貴方が。」
又、夜義は「半端ねえぇ……」と思った。
「ほら。夜義君も、いつまで固まっているつもり?」
「いや………マジ半端無いっすよ…………」
「そりゃあのう。」
呆けてるというか、暢気というか。さっきまでの喧嘩(というか、殆ど殺し合い)が、まるで何かの享楽のように楽しむ少年。
「あなた。何者っすか?」
これを聞かずにはいられない。夜義は、体を傾けたまま、刀身を地面に接触させたまま問うた。
「私に勝ったら教えてやろう。」
―――――無理です。
夜義はそのまま、脆くも地面に崩れ去った。