憂いの夕凪、白夜の狐 (後編)

   SiRaNuI


 
目を覚ますと、目の前に広がるのは薄紫の藤の花。
垂れる頭の重きかな。豊満にも蕾をつけた房が無数に散りばめられている。

「今日は何をしに?」
聞こえてくるのは二人の会話。
「何、軽い探し物さ。ちょっと倫敦(ロンドン)に居た時に、大切なものを失くしちゃってね。」
「倫敦(ロンドン)ねぇ。」
京子はいつの間にか、敬語を使わなくなっている。夜義は、自分以外に京子が敬語を使わない相手を知らない。
「あそこは良かった。十年もいなかったけど、それでも歴史の重みは感じられたな。今度行って見るといい。」
少年の口調も現代のそれと変化していた。
「残念だけど、ここは空けられないの。」
「なるほど。」
二人は、最初と同じく揃って腰掛け、茶をしばいていた。

で、
ふと、藤の枝の先の空を見たとき、夜義はギョッとした。
「何だコリャ!」
雅場(がば)っと飛び起きた夜義は大声を上げた。
何故かと言うと、さっきまで晴れていた空が、どんよりとした曇天に包まれていたからだ。
いや、唯曇天なだけならそうは驚くまい。
その空の色は尋常じゃなかった。
所々に黒い。
その黒は、雲の黒と言うよりも、空に洋塗装(ペンキ)をぶちまけた様な泥っとした黒さだ。
所々に蒼い。
それこそ、空よりも、海よりも果てしなく濃厚な群青だ。
そして、所々に赤い。
空が吐血したのかと思わんばかりの鮮血は、気分を害するに十分な不快感だ。
そんな非常に異常な事態に、夜義は京子と少年を仰いだ。
「貴方のせいよ。」
「何で。」
「今日は凶会日。せっかく楠の樹界で括っていたのに、貴方が壊してしまうから。」
「邪魔だったんだよ。」
「何が邪魔よ。貴方なら無視して来られたでしょうに。」
「俺へのあてつけかと思った。」
「どうして?まさかこの機会(タイミング)で貴方が来るなんて夢にも思わなかったわ。」
「俺も忌々しい陰陽者の風習なんて忘れてたんだよ。ずっと日本にいなかったからな。」
「何処をほっつき歩いていたの。」
「紐育(ニューヨーク)、桑港(サンフランシスコ)、北京、香港、聖都(メッカ)、巴里(パリ)、伯林(ベルリン)、羅馬(ローマ)………」
「それで倫敦?」
「否(イヤ)、その後、濠太剌利(オーストラリア)と東南亜細亜(アジア)と南阿弗利加(アフリカ)を経由してきた。」
「暇人。」
「人じゃないし。」
そんな痴話喧嘩的雑言を挟めるほど、今の状況は楽観的では無いことは夜義には分かっていた。
「夜義君。」
不意に京子の振り。
「はい。」
「うちは御茶屋よ。」
「はい?」
「何を今更」との言葉を飲み込んで、夜義は次の言葉を待つ。
「御客様はとても大切よ。どんな方であったとしても、拒絶しないのが真の商人(あきんど)よ。」
「はあ。」
「でも、御客様同士の争いは止められないわ。この意味分かるわよね?」
その言葉を言った京子の表情はなんとも形容しがたいものだった。
残念そうなのだが、何か嬉しそうで、悟ったような、言訳じみた表情。
「はあぁぁ……」と、深い溜息が漏れる。
「分かった分かった。やりゃあ良いんだろう。」
なんとも怪訝そうな顔をして少年が立ち上がる。
「店の保障はせんからの。」
「問題ないわ。」
少年は席を立つとゆっくり前に踏み出す。
憎々とした空に向って少年は言葉を発す。
「荒ぶる御霊よ。どうか静まり給え。―――」
一見丁寧そうで。
「―――潔く去れ、さもなくば消し飛ばすぞ。」
すげぇ事を言っているし。

それに答えるかのように空に変化が訪れる。
黒い空は一点に黒も集中し、其れが蛇のようにとぐろを巻きながら地上へ降りてくる。
地面に達すると、ヘドロの様にその雲が変形をはじめ、虚無僧の成れの果てのような生き物を形造った。
何という穢れの濃さか。
見ているだけで気分を害し、心の奥を刃物で引き裂かれたような悪寒が全身を駆け巡る。
夜義は奥歯を噛む。
間違いなく、今まで見てきたい色々なモノの中で最上級にヤバイモノだと判断する。
とてもじゃないが身動きなんてできない。
そんな中、
「近頃の穢れは誇りも何もないのかのお。よもや人型を取るとは、よっぽど自らの呪≠ノ自信があると見える。」
なんと言う事もない。
この少年には、あのモノが如何に負成る者であろうと、そんなことは関係ないのだ。
「さあ選べ。自らの足でこの地を去るか。私に去らせられるか。」
動く。
その穢れのモノは、体中から炎々とした黒い氣を吐きながらじわりじわりと近づいてくる。
夜義はとっさに口を押さえた。
全身を蛇が取り巻く。
一切の感傷も許さず、絶対的な呪≠ェ全身を呪う。
「辛そうだのう、夜義。」
少年はちらりと夜義を顧みて言った。
「大きなお世話です。これぐらいでどうにかなるバイトじゃありません。」
強気な科白も、地面に膝をつきながらだと何の説得力もない。
「結構結構!」
少年は笑って見せた。
「よく見ておけ夜義。この私。」
そうして少年は穢れのモノを直視する。


「早々に逝け。」


事態は一瞬。
白い影が消えたと思うと、次の出現場所は、極闇の一歩手前。
払う手拳は穢れのモノの上半身を捕らえた。
「どりゃあ!」
が、その手拳が掻いたのは空。
黒い霧に惑わされた空は、そこに実体を写さない。
居場所は少年の側部。
そう判断が及んだ時には、戦局は次の事態に移行する。
穢れのモノの攻撃。その出現場所は腹。
そこから濁流のように黒い呪≠ェ一気に少年を襲う。
少年は判断を見誤った。
飛びのいた先は樹木。
勢い余り背を樹木に強打し、動きが止まる。
「ちぃっ……!のわあぁぁあああ!!」
再び黒い濁流が襲う。
『迄仏部図津図厚味雄個帆吹機手陸奥!!!』
轟音。
その威力や、実際の洪水濁流の類とは似て非なる威力。
少年はおろか、背後の森もろとも吹き飛ばした。

「きょ、きょ、京子さん!やられちゃいましたよ!あの人!」
「人じゃないわ。」
「そこじゃねえし!」
「いいから黙って見てなさい。そうそう見れないわよ。」
「あははははははははははははっ!」
少年の笑い声が響く。
ついちょっと前まで森があったところは今や、黒い穢れに侵され、紫色の瘴気を湯気のように噴出しながらそこにある。比喩すれば「フカイの森」しかも色が黒いだけよりおぞましい光景だ。

「見れないって何がですか!」

「彼の本性よ。」

風が起こる。
弱い風は次第に渦を巻き、辺りの瘴気も巻き込みながら強大な竜巻へと昇っていく。
『氣玖負氣鶴筒濡千秋帆木村付記!!!』
穢れのモノは声のような音を発する。
其れが何を意味しているか分からない。ただ、目の前に発展していく巨大な気流の渦が恐ろしいのだ。
それは自然ではない。あらゆる自然の摂理をねじ伏せて強制的に作り出す人為的な流れ。
否。
人為的≠ニ言うには語弊がある。
もはや人為の至る程度ではない。それは余りにも神がかり的過ぎる。
「その通り神≠セもの。」
京子さん。地の文にツッコミを入れないで下さい。
「まあ、昔の話だけど。」
「誰と話してるんですか?」
「あなたの気にすべきことじゃないわ。」
「はぁ……。」

ええと、聞こえるのはすんごい暴風の音と、少年の馬鹿みたいな笑い声。

「馬鹿とは何事だああぁぁ!!!」
うお!?甲高い笑い声の次は叫び声。穢れのモノも戸惑っている様子!
「酔い覚ませぇ。」
少年の叫びと共に走り抜ける爆風。
出来上がった竜巻は巻き込んだ瘴気もろとも弾け飛ぶ。
視界がはれる。
そこに居たのは、もはや人間の少年にあらず。
「傅け。我こそは、天地開闢よりこの世に降りし白孤の聖霊。」
纏うは純白の羽織り、内に付けるは鮮やかな朱の着物。履くは穢れ無き白の袴。
「列島屈指の霊山は天名山が天公爵!その名を聞けば、九尾の狐も慄き逃げ出す白天の霊王。」
そして、其れらを纏うは、

白狐。

その頭や手や。銀の毛並みが風に煽られ鮮やかな文様を描き、光る金色の瞳は坤世万物を見透かすが如し。
無様を許さぬ白き牙は、絡みし一切を逃さず、凛とした耳の屈するを知らない。
発する気の高貴なるは如何。其れを感ずる者全てに全能たる由縁を叩き込む。

「天名山は重籐守雅氏(しげとうのかみまさうじ)也。」

その姿や、まさに神≠ナある。

もはや何も無い。
黒き穢れはひたすらに叫ぶも爆風に気圧されてしまう。
神≠フ右手に持つは白き扇。縁には銀の装飾、そして朱色の緒。

「去らば。」

凪ぐ一撃は爆風を呼び、形成するは渦。あらゆる穢れを飲み込む、圧倒的な脅威。
穢れのモノも、店も、森も、一切のモノがその力によって崩壊していく。
崩れた屑は螺旋を辿って天へ消え、地面にはその畢竟な爪痕を残す。
それ以上は分からない。
後は爆音の止むまで小一時間、視界に映るは唯ひたすらに白い風景。
そして聞こえるのは、先ほどまで少年であった者の、狂ったような笑い声。


後は何も無かった。
いつの間にかそこにはいつも通りの森。いつも通りの店。いつも通りの又藤。
そして、いつも通りの京子と、夜義。
「世話かけたな。」
そこに居るのは白髪の少年。
今や店から数歩外で見送る。
「時に、槍≠ヘどうしたんですか?」
夜義と並んで立つ京子は不意にそんな事を聞いた。
ぴくっと、少年は目を細める。
「いつ気付いた?」
「先ほど、穢れと一緒にこの辺一帯を吹き飛ばした時に。」
少年は黙って、溜息を一つ。
「なんだか分かるか?」
不意に懐から何かを取り出し見せる。
それは手帳。
掌サイズの黒い牛革の手帳だ。
表面にうっすらと窪みのような筋が滲んでいる。
「イギリスの大量殺人鬼、アルフレッドの殺人記録ノートだが…………」
それをまじまじと見る京子。
「契約印ね。」
何のことやら夜義には分からなかった。
「そうだ。ベルゼビュート配下、アガリアレプトの契約印、しかも未執行の逸品だ。」
「それは変ね。普通、契約印は契約者の身体のどこかに刻むものよ。」
「何の手違いがあったかは知らんがな。」
「それで?」
「奴さんが取り戻しに来ての、甘く見てたら槍≠奪われた。」
「あなたも馬鹿ねぇ。」
「五月蝿いのう。」
二人の会話の半分も理解できてない夜義は疑問符を少年に向けた。
すると少年は、「お前が気にすることでもない。」と笑って見せた。はぐらかされたのだと思う。
「というわけだ。何か分かったら教えてくれい。」
「気が向いたらね。」
「結構結構!」
少年は笑った。
「夜義。」
不意に名前を呼ばれて
「又何時かやろう、喧嘩。」
細く笑った。

そして少年は去っていく。
木々の織り成す自然のトンネルを抜けて、どこかへと去っていく。
残された宇受賣屋にはいつもの二人がたたずむ。
「何なんですか、あの人は。」
店に入ろうとしていた京子に、夜義はさりげなく聞いてみた。そして京子は少し困った声色で言った。

「忘れられた哀れな神の一柱よ。」
=了=