挨拶代わりに些細なデジャヴを + 第一章


 時間は真夜中の十二時過ぎ。
辺りには、ただ暗闇が広がっているだけである。

一人の女、谷口陽子はそんな暗闇の中に立っていた。
目の前には、乗り越えようと思えば簡単に乗り越えられる古いフェンスがあるばかり。
陽子はそのフェンスに向かって右足を踏み出す。
足の下のアスファルトがやけに重く感じる。

そこにいるのは陽子だけではない。
陽子の後方八メートルに、一人の見知らぬ男が立っていた。

陽子が、どこからともなくやっていたその男に、
「あなた誰ですか」と尋ねても、男は「気にしないでいいよ」としか答えなかった。

陽子はフェンスに向かってゆっくり歩を進めながら、この怪しい男について考えていた。
背が高く。
金髪に近い茶髪の髪は所々カーブがかかり、ふわっとした印象を与えている。
更なる特徴としては、その真っ黒な服装が挙げられた。
真っ黒なロングコートの襟元から覗く、皺一つないシャツですらも黒色。
さらにズボンも、はめている手袋も黒。
しかしその男の肌は
男性の肌とは思えないほど白く透き通っていた。
整った顔立ちに見劣りしない澄んだ眼光。
顔だけ闇から切り取ったようなその男は、音も無く、いつの間にか陽子の後ろに立っていたのだ。

「あ、あ、あなた!いつからそこに居たの!?」
これが、陽子がこの男に話しかけた最初の言葉だった。
「さっきからいたよ」
男は、にこっと笑うとそう答えた。

その後しばらく沈黙。
その沈黙を破ったのが、陽子の「あなたは誰ですか」だったのだが
男はまじめに答えようとしなかった。

陽子はこの男がつくづく奇妙だと思った。
この男は、自分がこれから何をしようとしているのか知っているのだろうか?
その状況になったとき、彼は私のことを止めてくれるのだろうか?
そんなことを考えているうちに、陽子はフェンスの前まで来ていた。
そして陽子は、フェンスに手を掛け、網目に靴の先をはめ込み、ガチャガチャとフェンスを上った。
もうこうなったら、スカートの裾など気にしてはいられない。
―――
とうとうフェンスを越えた。
―――
再び地面に足を下ろす。
先ほどと同じアスファルトの地面。
ただ違うのは、
一歩先にはもう地面はないということだけだ。
そう、一歩先にあるのは全てが終わる絶壁。

陽子は靴を脱ぐ。
二ヶ月前に買った、茶色い皮のオシャレな靴だ。
脱いだ靴をそろえると
陽子は身体を起こしそっと後ろを振り返ってみた。


男はその光景をただ見ていた。
一人の女性が、スカートも気にせず、フェンスを越えていく。
男には、彼女がこれから何をしようとしているのか分かっているのだろうか?
それはこの男しか知らない。
不意に、女が自分の方を振り向いた。
その目は、まるで自分に何かを訴えかけているようであったが、
男はただ微笑んで手を振った。



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