挨拶代わりに些細なデジャヴを + 第二章


 振り返った陽子は、その男の行動に失望した。
てっきり、私のことを止めてくれるとばかり思っていた。
どんなに鈍い人間でも、この状況になれば、自分がこれから何をしようとしているのか察しはつくはずだ。
が、
彼は、ただ微笑んで手を振ってきたのだ。
不謹慎にも程がある。
陽子はそう思って、ぷいっと前に向き直った。


気のせいか?
男には、その女が怒ってしまったように見えた。
こっちを向いたかと思えば、
すぐにそっぽを向いてしまった。
何かをぶつくさといっているようだが、
風向きが変わったのか、
聞き取ることができない。


陽子にはもう呪いを吐く余裕はなかった。
そのはずだった。
しかし、なぜか自然と口から言葉が漏れている。
その多くは、先ほどの男の行動に対する非難だが、
もう死んでしまったと思っていた自分の口が
少しずつではあるが言葉を発していたのだ。
陽子はその事実に気付いたとき、思わず息を呑み、
それが当然かのように、目から涙が零れ落ちてきた。
陽子にはその涙を止めることが、どうしてもできなかった。


男は相変わらず女の事を眺め続けている。
フェンスの向こうで、
あの世とこの世の境界線を目の前に控えたその場所で、
女が肩を震わせ、嗚咽を漏らし泣いている。
やがて、女は崩れるようにしゃがみ込み、
その場でしばらく泣き続けた。


最後に涙を流してからどれくらいがたっていたのか?
もう、長い間泣いてないような気がする。
最後に泣いたのは、確か一浪の末に大学受験に失敗したときだったか……。
最後の大学を含めて、全ての大学から不合格を言い渡されて、
その送られてきた書類をぐしゃぐしゃにして泣いた記憶がある。
一生分の涙を使い果たしてしまったのではないかというぐらい泣いた気がする。
それからだ、
私は上京して、何年も就職口を探してフリーター生活を続けた。
親は全く助けてはくれなかった。
理由は“もう大人だから”
あまりにも苦しい生活。
その日の夕食もままならない生活。
何度、賞味期限切れのコンビに弁当を漁りに行ったことか。
そんな生活の中。
何度、田舎に逃げ帰ろうかと思ったか。
ようやく
死ぬ思いで就職を勝ち取った。
憧れのオフィス。
私のOL生活は、苦しくも希望の幕開けとなった。
そして、その生活が
昔以上の地獄となるのに
さほど時間はかからなかった。
同僚からは無視され、
上司からは何も誤りが無いのに呼び出しを喰らい。
連絡は回ってこないし、デスクが綺麗になっていることは無い。
常に身に覚えの無いゴミもしくは書類が乱雑に投げ捨てられていた。
理由はよく分からない。
前に一度、
そのことを大勢に問いただしたことがあった。
言えるだけの文句を言った。
そしてそれ以上の中傷を受け、いじめはさらに酷くなった。
また文句を言った。
カバンが切り裂かれた。
呪いの言葉を吐いた。
引き出しの中に汚泥が詰まっていた。
狂ったように叫び続けた。
もう誰も私のことを見ようとは
もう誰も私の存在を認めようとは

しなかった。

それでも
私は泣くことをしなかった。
いや、できなかったのかもしれない。
もしかすると、
そんなことをしている余裕すらも失っていたのかもしれない。

そこにいるのにいない存在。
そこにいるだけで、居ないより悪い存在。
それから私はは自分の言葉を閉ざした。


やっと泣くことをやめた。
女は両手を使って顔を擦った。
涙で腕にシミができてしまっている。
どれほど泣いたのか?
顔を擦ったあと、女はフェンスに掴まりながら身体を起こし、
脱いだ靴を履いた。
そして、自分の方を向いた。
その顔は先ほどまでとは打って変わって希望的な表情をしていた。



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