挨拶代わりに些細なデジャヴを + 第三章


 
陽子は振り返った。
男を見る。
また涙がこぼれそうになる。
陽子はその衝動を抑えながら声を絞り出した。
「止めないんですね」
すると男はまたにっこりと微笑んで言った。
「止める必要が無かったからね」
「でも……私はさっきまでここから飛び降りようと思っていたんですよ?」
「そうだね」
微笑み。
男の声には妙に確信めいた感じがあった。
まるで、自分が飛び降りないことを知っていたかのように。
「ありがとうございます……」
陽子は感謝の言葉を述べた。
「何でお礼なんて言うんだい?僕は何もしていないのに」
確かに男は何もしていない。ただそこに立っていただけだ。
「それでよかったんです……」
そう、もしそこに誰も居なかったら時間がかかろうとも、確実に自分は今頃下で見るも無残な姿になっていただろう。
そして男がもし「両親や友人が悲しむ」とか「生きていればいい事もある」なんて言葉を掛けていたとしても、
自分はその言葉を胸にしまい、救いを求めてやっぱり飛び降りていただろう。
だから、そこに居て何もしないのが一番なのだ。


それから二人は他愛の無い話をした。
「君の夢って何だい?」
「夢ですか……幸せになること……ですかね……」
「ん〜…なかなかいい趣味をしているね。」
今まで、下ばかり向いていた気がする。
こんなにも晴れて夜空が綺麗なのに気付かなかったのだから。
星達は一生懸命自らを輝かせ、月は大いに笑んでいた。
たまにはこうして、星を見ながら語り合うのも良い。
「いいかい。毎日を楽しく生きるコツは、嫌なことをやらないことだ」
「そうですか……」
二人は真夜中の屋上の床に、並んで腰を下ろしていた。
男と会話している陽子の顔は、先ほどまで自殺しようとしていた人間のそれとは思えないほど
すっきりしていた。
「そういえば……」
陽子はここで、今まで疑問に思っていたことを話してみることにした。
「どうしてあなたはここに居るんですか?」
すると男は、例のごとく微笑むと、
「散歩の途中で寄っただけさ」
と言った。
「何で散歩の途中でビルの屋上に来るんですか?」
「う〜ん…」と男は多少困った顔をして、
「空が綺麗だったからさ。じっくり見たかったんだよ」
と答えた。
どうにもこの男の言動には奇妙な感じがある。
しかし、こうしていると、なんだかとても落ち着き心の底から安心できた。
「そろそろ帰った方がいいんじゃないかい?」
不意に男が言った。
腕時計を見ると、軽く真夜中の二時を回っていた。
もう少し話していたいのだが、時間が時間なので陽子は家路につくことにした。
「途中までご一緒しませんか?」と陽子が聞いても、男は「僕はまだいいや」と言った。
それならと、陽子は腰を上げ、お尻を軽く叩いた。
そして「じゃあ。さようなら」と言うと、男に背を向けて出口に向かって歩き始めた。
と、ノブに手を掛けたとき、不意にある問題が浮かび上がった。
「あの……」
陽子は振り向きざまに言った。
「あなたのお名前は?……」
男は首だけ後ろに回して、
そして、今までで一番澄んだ笑顔で言った。
「柊だ」
その声が、まるでエコーがかかったように、頭の中にこだまする。
「ヒイラギさん…………また会えますよね?」
質問。
「ああ。きっと会えるよ」
回答。
その言葉を聞くと、
陽子も、にこっと笑いドアの向こうに去っていった。

ドアの閉まる、鉄錆びの音が、やけに美しく聞こえた。


陽子はこの後、階段を下りながら考えた。
『あの人とどこかで会ったことがあるような気がする』
しかし、その些細なデジャヴは今のさっぱりとした清々しい気分の中で
その小さな灯火を消していった。

これが、谷口陽子と柊の、最初にして最後の出会い。
だが、柊的には二回目で最後の出会い。
ただ彼女は覚えていない。
一回目の出会いを覚えていない。
柊とは、そういう存在なのだ。



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