遺愛の国のアリス 編 +第一章

 さあ、おいで!夢の都『ヌーヴェル・リュンヌ』!
 ここは天国!不幸なんてありゃしない!
 ここは極楽!病気なんてありゃしない!
 ここは楽園!苦痛なんてありゃしない!
 ここには何もありゃしない!
 幸福も、健康も、快楽も!
 嗚呼!それらを感じる心さえも!
 だから楽園!まさに楽園!これこそ楽園!
 さあ、おいで!ここは夢の都!
 至極の虚夢幻『ヌーヴェル・リュンヌ』!
        ―――アーノルド・レマルク『楽園』冒頭


 空は灰色の圧雲に飲まれていた。
 押し殺されそうな陰鬱な冷気が肌を刺す。
 吐いた息は白く濁り、何も無い空間に霧散していった。
 靴の半分以上は白く冷たい雪の中に沈んでいる。
 ギシギシと痛む指先は、手袋から肌蹴た手首に連結されているだけのような感覚。
 目の前に広がるのは白。
 一切のまじりっけの無い純白の大草原が目の前には広がっていた。
 そこに少年は一人立つ。
 なぜそんなところに居るのか?
 どうやってこんなところへやって来たのか?
 寧ろ、ここは一体どこか?
 今まで自分は何をしていたのか?
 これから自分は何をするべきなのか?
 分からない。
 分からない。
 分からない。
 暫くの思想。どうもはっきりしない脳内細胞。解けるように、溶けるように、融けるように。
 思考が無秩序に渦巻いて、遥か混乱の彼方へと流れていく。
 実は混乱している。
 全くの無知識。全くの無情報。
 少年はただ、雪原の真ん中に立ち尽くす。

 それからどれくらい経った頃だろう。
 どうも記憶が曖昧で正確な時間は思い出せない。
 ただこの僕、かんだ神田のぶひこ伸彦にとって、その時間は永遠といっても過言ではないほど長く感じられた事に間違いはない。
 僕はただひたすらに雪原を歩いていた。
 空は相変わらずの曇天。
 地平線は一向に直線。
 後ろになびくのは悠久とも思える自らの足跡。
 どうにも滅入ってくる。
 一体何がどうなってこういうことになったか分からないのだ。
 服装を確認すると、詰襟の学生服、革靴、軽いバックにマフラーという軽装。
 間違ってもこんな雪原を散歩するには不釣合いな衣装だ。
 僕がどんなに馬鹿でも、雪の中を革靴で歩くなんて考えるわけは無い。
 そう、どんなに思考を巡らせようとも、僕が今この場に居る理由が思いつかないのだ。
 言い方を変えれば、『僕はこんなところにいるわけは無い』のだ。
 にもかかわらず、現実に僕は雪の中を一生懸命進んでいる。
 何のために進んでいるのかもわからないが、とりあえず、助けを探すとか、帰り道を探すとか、そういった理由が適当であるように思われる。
 といっても、人の気配どころか、森も、町も、動物すらも見当たらないのだから、この後僕がたどる運命は嫌でも縁起の悪い方向に向いてしまう。
 もしここで、僕が熱心なキリシタンだったら、自らの罪を悔い改め救済を請うだろう。もし、僕が厳格な仏僧だったら、お経の一つでも唱えるだろう。
 しかし残念ながら、僕に信じている神様の類は居ない。よって僕のとるべき行動は唯一つ。
 進もう。
 歩こう。
 もう、そんなことしかできない。
 だから進む。
 僕は歩く。
 
 



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