遺愛の国のアリス 編 +最終章


 目が覚めると
そこには灰色の世界が広がっていた。
よく見ればそれは雨風にさらされ変色したビルの壁。
三方を高い壁にふさがれたこの場所。
目の前に立つ廃棄されたビル。「ホテル・カシオペア」。
その裏口らしきドア。
もはやそこには扉はなかった。
ただ、ドア的な大きさの長方形の穴が開いているだけだ。
中は暗くてよく見えない。
だが、その入り口の前。
数段の石の階段に座り、厚表紙の本を読むその男に嫌でも目が行く。
その男は、目の前に俺が立っているのも関わらず、ひたすらに本に目を落とす。
その服装は黒。
上から下まで真っ黒。
にもかかわらず、肌だけは抜けるように白く、髪は金髪に近い色をしていた。
俺はそんな奇妙な男の前で漠然とただ立っていた。

「済まなかったね。」

唐突に言葉を発するその男。

「君を巻き込むつもりは無かったんだよ?でも本って言う物は詠んでこそ初めて価値が分かるものだからさ。」

決してこちらに目を向けることなく、ただ、声だけを発して、男は言う。

「僕の仕事はこの本の回収および処理だったんだけど、どうしても読みたくなってね。『世界最強の著者』の最後の一作を。」

俺も聞いているんだか聞いていないんだかよく分からない。ただ、その男の声が空気の振動となって耳にか言ってきている。そういう感じだ。
「済まなかったね。」

同じ科白を繰り返す。
ここで初めてその男が顔を上げた。
目が合う。
俺は視線を逸らす事も、その視線に照準を合わせることもせずに言った。

「あんたの声。聞いたことあるな。」

「当然。」

男は少し笑いながら本を閉じ、表表紙を俺に見せた。
それはくすんだ赤いカバーの本。表紙に印刷されている文字は英語のようだ。

『ヌーヴェル・リュンヌ』

確かに、その本にはそう印刷されていた。
著者「アーノルド・レマルク」
聴いたことのない名だ。

「彼は人にしては奇妙な力を持っていた。それは良い意味では読者の感情移入を誘い、悪い意味では、その人々を物語りに引きずりこんだ。物語と、現実との区別がつかなくなるんだ。」

男はそのまま、その本を下ろすと、立ち上がった。

「そして、この本はさらに特別。レマルク作品の中でも最高最悪の作品。もはやこの本は本にあらず。本自体が一個生命体といっても過言ではないね。」

俺は何の反応も示さない。

「僕はもう行くけど。君はどうする?まだ楽園を求め続けるかい?」

俺は深く瞬きをする。夢から覚めるように、しっかりと一回。
瞬きをして

「誰が。」
と言った。
すると、その男は右手を高らかに上げて、笑いながら言った。

「結構。」

パチッ。と指が鳴る音がした。

そこには何もいなかった。
最初からそこにはないもいなかったかのようにただ、灰色の壁と自分という存在だけがそこに立っていた。
夢から俺は覚めているのか?
まだ夢を見ているのか?

まあ、どっちでも同じ事じゃねえの?

俺は一息溜息をついた。
見上げた空は、夕日に染まる朱。
その朱が綺麗な長方形に切り取られていた。

ふと、その朱に一点のアクセント。
黒い。
真っ黒な一枚の羽。
ゆっくりと、空から舞い落ちるその黒い羽は、カラスにしては余りにも綺麗過ぎていた。
地面に落ちるまで、俺はその羽を見つめていた。

もう一度。
深く息をついた俺は、きびすを返す。
足元に転がっているバックを掴み、路地の出口へ向う。

その帰路。
この日の奇妙な体験を一生忘れる事はないのだろうなと、
密かに思った。



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