遺愛の国のアリス 編 +第五章

 不意に声が聞こえた。
僕ははっとして差し出した右手を引っ込めた。
目の前のイキモノは眉をひそめる。
「どうしたのかな、急に。」
僕は目の前のイキモノを見る。
それは到底この世に存在するはずもない化け物だ。
「寒さで気が触れたのかもしれないよチャールズ。」
それが喋っている。頭を二つ付けた気持ちの悪いイキモノが目の前で喋っている。
「まさか。それは無いさワトソン。」
何をやっている!
お前は誰だ!
俺は神田伸彦だろう!一体俺は今何をしようとしていた!?
そうだ!よく見ろ!よく考えろ!お前は!俺はいったい何をしているんだ!
「でも分からないさ。早々にイシビヤラに連れて行ってお医者様に見てもらおうじゃないか。」
「ああ、名案だねワトソン。」
思い出せ思い出せ思い出せ!どうしてこんな事になったのか!
考えろ考えろ考えろ!今どうすべきか考えろ!

『とりあえず逃げれば?』

「「そうと決まったら!膳は急げだ!さあ、行こう!楽園の街・イシビヤラへ!!!!」」
そのイキモノが、勢い良く俺の手を掴もうとした。
俺は反射的に身を引いて全速力で駆け出した。
それは一種本能的な反応。それは、獣が圧倒的強者に対峙した時、勝負なんて気持ちを一切捨てて生き残るため全速力で逃げ出す現象に似ている。
一歩一歩が重い。
力強く走るため、より一層足が雪の中に埋もれ、引き抜くのに力がいる。走る事は困難極まりないが、そんな事を言っている暇は無い。
ただ今分かっている事は、あの化け物の手を握っていたらオレの人生は間違いなく終っていたということだ。
楽園だかなんだか知らないが、そんな世界にいたら本当に、物理的に脳みそが溶けかねない。
そんな廃人みたいな人生は真っ平御免!
不意に聞こえてくる奇妙な『声』も気になるが、今は奴から逃げる事に専念しよう。
ちらりと後ろを振り返る。
そこにはホワイトアウト白煙に消失した光景が広がるばかり。あのイキモノが追って来ているのかどうかさえも見当がつかない。だが俺は歩を休めない。
ひたすらに走る。自分が納得するまで走りきる!

『疲れない?』

またあの声だ。淡く切なく尊大に、その声は俺の脳を刺激する。
「何だお前!」
叫んでみた。行き先は姿の見えない声。

『何って聞かれてもね。』

返事した。どうやらこっちの声も届いているみたいだ。
と、不意に足を何かに掴まれた。
「!!!」
勢い余って俺はそのまま地面に激突する。雪のクッションは決して柔らかくも無く、鋭く小さい結晶が俺の肌を研磨する。
「どうして逃げ出すんだい?」
「そうとも。歓迎は謹んで受けるのが礼儀ではないのかな?」
掴まれた足を見る。掴んでいるのは嫌に巨大な手袋だ。
その手袋は、ニョキっと雪の地面から生えていた。
「少し落ち着きたまえ。」
声は雪の中から聞こえる。
手袋が俺の足を離すと、文字通り、雪の中から奴が生えてきた。
地面に埋められた植物の種が芽を出すかのように、チャールズとワトソンは雪の中から姿を現した。
「何も恐れることは無い。」
「怖いのは最初だけさ。すぐにその感情も消えて、優雅に楽園生活を送れる。」
自分勝手な理屈を並べるワトソンとチャールズ。俺は雪の中を転がりながらも奴から離れ、勢いよく起き上がった。
服に纏わり付く雪を気にすることなく、俺は二人(一人とは表現できない)を蔑視した。
「そんな怖い顔をしないでおくれ。」
「そうだよ。そんな顔では女の子に嫌われてしまうよ。」
「ダメだよワトソン。イシビヤラの女性は皆顔なんて気にしない。彼女らが気にするのは脂乗りだけだからね!」
「ははは!その通りだねチャールズ!」
ケタケタと気味の悪い談笑を繰り広げる奇怪生物に対して俺は警戒を解くことなく言った。
「あんたらの仲間になる気なんて毛頭無いんだよ!分かったらさっさと俺の前から消えろ!」
その言葉を聞いて、二人は一瞬沈黙するも、ワトソンは手を顔に当てて、嘆きのポーズをとりながら言った。
「あああ、なんと言うことだ。彼はとうとう気が触れてしまったようだ。楽園に入る気が無い?そう言うんだよチャールズ!これは正気の沙汰じゃない!」
「実に遺憾だよワトソン!これは早々に『処置』をする必要がありそうだ!」
「全くその通りだ!」
その言葉を最後に、ワトソンは手を顔から腰に移した。
「少しじっとして居たまえ。」
チャールズの言葉の後、腰に当てられた手が、ポケットから何なら銀色のナイフのような物を取り出した。
それは刃渡り十五センチくらいだが、刀身は楕円型を柄にくっつけたような感じで、何の鋭さも感じられない。
ただ、それを右手で持ったチャールズとワトソンの言葉に、俺は背筋を凍らせた。
「これは君達の言う注射器のようなものでね。これで眼球を刺すと脳に直接『楽園』が流れ込むんだ。『楽園』は一瞬にして君の脳の全ニューロンを侵し、全てのシナプスを支配する。」
「これで君の感情は完全に凍りつく。そして『楽園』はその後君の肉体を食い散らす。」
「大丈夫、安心したまえ!腐った身体は捨てて、君の魂だけを相応しい器に移し換えてあげるよ!」
「何が良いかな?動物?魚?ああ!妖精や魔獣の類もあるよ!何なら人間に近い器が良いかい?ただ腕の本数が君の半分なだけだから安心したまえ!」
奴はその銀ナイフを俺に向ける。
「大丈夫!痛いのは最初だけだ!すぐに痛みなんてナンセンスな感覚は消えてしまうよ!」
右手が俺に向って飛んでくる。
俺はとっさに身を引こうとするが、足を雪に取られて後ろに倒れる。
「っわ!」
飛んできた銀ナイフが髪を撫でる。俺の身体はそのまま雪に叩きつけられた。頭を雪に埋もれさせながら見上げたところには、投球ボールみたいな速さでぐんぐんと伸びるワトソンの腕が映る。伸びた腕は、一直線に俺の背後であった場所をも通り過ぎて、それでも止まることなく伸び続ける。後ろに身を引いていては絶対に避けることはできなかっただろう。
俺は間髪いれず立ち上がり、一歩で奴の懐に飛び込んだ。
思い切り引いた拳で奴の下腹部を殴る。
「っぎぎ!」
鈍い感覚が拳を伝う。
俺はそのまま奴を通り過ぎ、背後へ回る。
最後に一発、思いっきり背中に蹴りこみ。そのまま逃走を試みる。
振り返りもしないで走りながら、ワトソンとチャールズの苦しみの声が聞こえた。



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